それで、なにを表現したいの?


 

 

 

 

 

 

 

僕がだらだらマジックをしていたとき。
何人か「すげえな」と、心底おもわされたマシャンがいました。

僕のしっているトリックを、しっているように演じているのに。
どこか「ちがった」のです。

おあそびの延長でなく、ワンランク上のものをみせられたような、
「ああ、これこそマジシャンだ」という感覚でした。

あきらかに「光っている」パフォーマーというのはいます。
彼らは、なにがちがったのでしょう。

 

語ることができているか

 

結論からいうと「表現になっているか」だとおもいました。
彼らはみな、マジックでなにかを表現していたのです。

なにを表現するかはひとによります。
けれどみな、マジックをみせるだけでは満足していなかった。

それは、マジックそのものを「目的にしない」という意味です。
マジックを、なにかを語るための「手段にする」ということです。

マジックを「目的」でなく「手段」にすること。
すると、カードやコインのさきに、なにかみえるような気がしませんか。

 

技術はなんのために?

 

けれどマジックは、なかなか表現にしずらい。
それ自体が、おもしろい行為だからです。

ひねくれたみかたをすると「マジックができる」とは、
絵画でいう「すばやく模写できる」「正確な円をかける」ようなものです。
これも、修行でしか、手にはいらない技術です。

しかし、技術は、あくまで技術です。
それだけでは、なんにもなりません。

どれだけすばらしい技術があっても、
それだけでは、すばらしい表現者になれません。

「それで、なにを表現したいの?」ということです。
「食材はすごいけど、それで、どんな料理をつくるの?」という話です。

そこからが、苦悩のはじまりであり、スタートなのです。
まさに、技術がある「だけ」という状態だともいえます。

なのに、マジックの場合、ここがちがいます。
「すばやく模写できる」「正確な円をかける」だけで、拍手喝采なのです。

「ふしぎだふしぎだ」と、みなおおよろこびです。
表現者のスタートが、なんと、マジシャンのゴールなのであります。

そして、なにかを語るための、手段そのものが「ウケてしまう」とは。
なにも語らずとも、中身のなくとも、安心していられるということです。

口をぱくぱくするだけでウケるなら、トークをみがく必要もなくなるでしょう。
しまいには、腹話術の人形やファービーでことたります。

 

手段にすると、奥がみえる

 

こんなことをかくと、
「ちょいと、高尚なゲージュツとかんちがいしてないかい?」といわれそうです。
まったくです。

たしかに、マジックはエンターテイメントでもあるのですね。
「表現うんぬんでなく、マジックそのものを楽しめたらいいじゃないか」と。
もちろんです。

実際、はじめにあげたなかにも、そうしたマジシャンはいました。
しかし彼らも、マジックを「手段」にしているのは、おなじだとおもうのです。

彼らの目的とは、「エンターテイメント」や「その場の楽しみ」です。
すくなくとも、マジックを目的にするだけでは、よしとしていなかった。

ここでいう「表現・目的」は、なにもゲージュツ的な、苦悩葛藤でなくていいのです。
大事なのは、「なんのためにマジックをするのか」だけです。

これは「マジックのためのマジック」を否定しているのではありません。
それもひとつのありかたです。

けれど、それを「手段の目的化」だと考えることもできます。
目的にするかぎり、それより先はありません。
そういうものです。

僕は、たったひとつのことをいいたいだけです。

もし、自分の内側に、なにか語りかけてくるものがあるなら、
マジックを、そのための手段として、とらえてみるのはどうでしょう。

いつもの道具のむこうに、形のない、あやしげな奥行きを感じませんか。
それだけです。

なにかをする人間は、それだけを目的にするのはもったいない。
それを手段にすることで、さらにその先にいきましょう、という提案でした。

こういう言葉あそびって、どつぼにはまるので。
ひかえておくべきかとおもいつつ……。