「マジシャンは魔法使いを演じる役者である」のか?

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「人生は歩きまわる影法師、あわれな役者だ」
「マクベス」ウィリアム・シェイクスピア

 

マジシャンは魔法使いの役を演じる役者である

 

これはロベールウーダンの言葉です。
教科書の1ページ目にのるような、あまりにも有名なものです。
マジシャンをしていて、ふとしたときにおもいだします。
そして、なにかと考えてきました。

心にふれる、なにかがあるのかもしれません。
ある意味、マジシャンはこの言葉から逃げられないのだとおもいます。
意味がわかるようなわからないような……そんなことをくりかえしてきました。
そしていまも、つかめないままです。

それは、こんな問いにいいかえることもできます。
マジシャンは……マジックは、本物なのか、うわっつらの詐術なのか?
もはや観客の反応でなく、自分がどうおもうかの問題です。
マジシャンは、なぜマジックを信じきれないのでしょう。

ひとつには、マジックが嘘の技術だからです。
どうあがいても真実に到達することはありません。
どれだけ精巧なプラモデルも、本物の車にはなりえない……そういうことです。
ゆえにマジシャンは、自分が本物なのか悩むのです。

そしてつい、いろんなことを考えてしまいます。
おそらくこたえはなく、問い続けることこそが、価値なのだとしりながらも。
ここでは先の言葉から、なんらかのヒントをみつけてみようとおもいます。
書きながら、僕自身、考えを整理したいというのが目的です。

原文のながれや、翻訳、歴史的な問題もあるでしょうが。
ここでは、ぬきだしたままの、ひとつの箴言として考えてみます。
すでにこの一文だけで、独立して、命をえているようにおもうからです。
ミスタ・ウーダンがどう考えようと、言葉なんてそんなものです。

 

一般的な解釈

 

おそらく、もっとも一般的な解釈は、言葉そのままでしょう。
マジシャンは、魔法をつかう、非現実の存在、魔法使いを演じるものなんだよ。
しっかり演技して、現象にふさわしいふるまいをしよう……という感じ。

一理あります。
マジックは「この世におこりえないこと、魔法の再現」なのですから。
マジシャン自身も、それらしくあるべきです。

おしむらくは、現代でそうしても「あ、魔法使いだ!」とは、だれもおもいません。
うなずいて「ああ、魔法使いのふりしてるのね」が、関の山です。

百年前とくらべて、観客の事情もかわってきているはずなのです。
いまやみな「情報通」です。
動画やテレビで、ふしぎなものになれっこです……タネあかしすらあります。

「本物の魔法使いだと信じる」のは、もう不可能です。
「魔法使いを演じてるひとだとおもわれる」くらいです。

マジシャンは、マジシャンを「なのりすぎた」のかもしれません。
みなが魔法使いのふりして、いつまでもタネをしられずにいれば、
マジックなんて吹聴しなければ、マジシャンなんて言葉、だれもしらないままのはずです。

マジシャンはマジシャンをなのったときから、
あやしげな衣装をぬいで、燕尾服をきたときから、みずから魔法使いの役をおりたのです。
そして「あやしげな魔法使い」を「スマートな紳士」につくりかえたのもウーダンでした。
なんとも皮肉なものです。

もちろん、魔法らしくリアリティをつくるのは重要です。
しかし「もう、むかしの言葉の意味どおりにはいかない」という話です。

そのリアリティ(魔法使いらしさ)も考える必要があります。
現代において「魔法使いらしい」とは、なんでしょう?
ホグワーツの校長のような服装をすることでしょうか……ときに失笑ですらあります。

「魔法使い」を考えたときにうかぶ、あの姿は、すでに過去のものなのです。
ならば、魔法使いの役とは、なにを……どう演じることなのでしょう?
なにをもって「現代の魔法使い」とするのでしょう?

ひとつの解答は、ダレンブラウンだとおもいます。
現代人は「魔法」を信じないが「心理学」なら信じる……そういうものです。
しかし、あれは彼のスタイルであり、単純にまねるのは考えものでしょう。

もし、マジシャンが、魔法使いを演じるものだというなら。
それぞれが「現代における魔法使いとはなにか?」に、こたえるべきなのです。
なんであれ、本質はかわらずとも、形式を時代にあわせる必要はあるからです。

もしかすると「魔法使い」という言葉もすでに風化して、
かつてマジックに感じられた、ロマンチシズムすらも、考えなおすべきなのかもしれません。
現代におけるマジックの立ち位置から、再度、あの言葉をとらえなおす必要があるでしょう。

 

Mr. ポン太 the スミス の解釈

 

これを考えるときまずうかんだのは。
Mr. ポン太 the スミスの「マジシャンは魔法使いの役を演じる役者なのか?」でした。

読んでもらえたとして。
結論を拝借すると「マジシャンはマジシャンの役を演じる役者である」といえそうです。
マジシャンは「魔法使い」を演じるのでなく、
それぞれの信じる「マジシャン」を演じるものである、と。

これは上の段落(一般的な解釈)より、ひとつ先にすすんだこたえだとおもいました。
現代にマッチしている、ということです。

魔法使いは存在しないこと。
マジシャンという職業もしられてしまっていること。
これらを認めた上での解釈だからです。

「マジシャンはこうあってほしい」という、観客の客観的なイメージ。
「マジシャンはこうあるべし」という、自身の主観的なイメージ。

マジシャンは、それらを演じる役者だということになります。
しっくりくる、役づくりのしやすそうな解釈です。

しかし……これでは循環論法になります。
「犬とはなにか?」に「犬を産むもの」とこたえるようなものです。
現実的に役立つ解釈であれ「マジシャンとはなにか?」のこたえにはなりません。

そして、マジシャンはやはり「なにかの再現」である気がするのです。
抽象的ですが……なにかの影であり、それ自体が主でないというような。
それだけで独立できるほど、強度のある存在でないはずです。

ここのところを、もうすこし考えてみましょう。
あえてケチをつけることで、さらなる、ひまつぶしを試みようという作戦です。

 

個人的な解釈

 

人間には、イメージの世界があります。
そこでは、あらゆる法則を無視して、いくつもの夢があらわれます。
存在しない、けれど、だれの頭にもうかぶものです。

そもそも魔法とは、魔法使いとは、そこの住人だったのでしょう。
存在しないのはわかりきった(過去には信じられた)きらめくような世界。
マジシャンは、その世界を再現するもののことだとおもいます。
そうしたものを表現する、投影させる役者であるべきなのです。

過去には、それが真実だと錯覚させたこともあったのでしょう。
「本当になにもないところから薔薇がでたんだ!」なんて。
いまはそうもいきません。

しかしそれは時代の、表面的な変化です。
マジシャンが本物めいたこともあれば、たんなるマジシャンになった現代もあります。
もはや世間の情報量の問題であり、マジシャンの本質には関係ないことです。

マジシャンの本質とは、
やはり「魔法使いの役を演じる役者」だとおもうのです。

そして大事なのは「役者である」ということです。
観客はみな「あいつは役者だ」とわかってくれているのです……現代においては。

兵士を演じる役者に「あいつは本物じゃない」と、おこりだす観客はいません。
むしろ演技のなかに、兵士としての真実をみてくれるのではありませんか。

そう、マジシャンの本質は役者です。
魔法使いではありません。

彼らは役者として「ごくろうさま」と、敬意をはらってくれるのです。
ある意味、マジシャンへの拍手は、役を演じきったことへの賞賛です。

マジシャンが本物だとはだれもおもいません。
けれど、その本物たろうとする役者の情熱に、観客は、魔法の世界をみてくれるのです。

はじめの一般的な解釈とは、
おそらく、この「役者である」ことに重きをおいて、観客に認める点がちがうのだとおもいます。
もう、演じているのはバレているのです。

だからといって、なんらマジシャンの価値がへることはありません。
我々のつく嘘は、そういう種類の嘘……ひとつの真実なのです。

マジシャンは役者であることを、もっと、ひらきなおるべきなのかもしれません。
この世にないものを演じるのだから、本物になれないのは当然ではありませんか。
いつだって、その影をあびるだけです。

役者なんてあわれなものです。
しかしだからこそ、語りえる真実もあるはずなのです。
そろそろマジシャンは、そのことに、ほこりをもつべきではないでしょうか。