技術を空間にとけこませる(クラシックパスを使うには)

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クラシックパス……難度のたかい技法です。
初心者のころは練習こそすれ、実践できるなど考えもしませんでした。

なのに気づけば、乱用するまでになっていました。
ある意味、身についたわけです。

実際、いまではなぜかばれる気がしません。
ばれないとなると、これほど勝手のいい技法もないわけです。

技術が上達したのでしょうか。
というより、技法そのものへの考えがかわった気がします。

いまもクラシックパスを苦手だというひともいれば。
現場でたやすくこなすマジシャンもいます。

もし、両者とも練習しているのなら、
彼らに技術的な差はそこまでないはずなのに。

では、その認識のちがいはどこからくるのでしょう。
クラシックパスを例に、技術の修得・実践について考えてみます。

 

あのころクラシックパスはむずかしかった

 

過去にはクラシックパスなんて不可能技におもえていました。
わずかでも手からでてはいけない、高速でおこなわないといけない……等々。

練習しなかったわけではありません。
けれど、手のなかでくりかえしてみても、観客の目をだませるとはおもえなかった。

どう考えても、手のなかで、秘密の動作をかくすことができなかったからです。
カードががみえたり、筋肉がつられてうごいたり。

完璧にはほど遠い、夢のまた夢。
どこかの一部の、エキスパートの技法なのだとあきらめていました。

しかし、いまにしておもえば、これぞ、ひとつのステレオタイプでした。
誤解をおそれずにいうと「技法は完璧でなくていい」のです。

完璧はありえない、からです。
完璧は頭のなかにしかないのです。

そんな理想をもとめても、実現しないのはあたりまえのことです。
これぞクラシックパスが、不可能におもえた理由でした。

 

アーロン・フィッシャーにおしえられたこと

 

とはいえ、練習しなくていいのではありません。
完璧はありえないとはいえ、限りなく近づく努力はすべきです。

何年もまえに、アーロン・フィッシャーのレクチャーにいきました。
彼といえばハーフパスです。

その技術はまじかでみても本当にわかりませんでした。
〝みえてはいけないものがみえない〟のはもちろん、動作の気配すらなかった。

「だからといって」彼は言いました。「なんの心理的作戦もなしに行うことはない」

技術を、たとえ顕微鏡でみられてもわからないほどみがいても。
それを〝みせない〟策略なしにおこなうことはないというのです。

〝みられてもかまわない〟ほどみがいた上で〝みせない〟工夫をするのです。
この二段がまえこそ、技術のあるべき姿だとおもいました。

この話を引用したのはこういいたいからです。
いまから「技術がなくても成立するのさ」式の発言をしますが、そうではないと。

それは技術をつきつめた上での話だとおもってほしいのです。
誤解のなきように。

 

この空間で、そのトランプなんか小品でしかないじゃない

 

いまではクラシックパスを乱用してるといいました。
そのときの心境を言葉にすると「なんかどうでもいいや」です。

もはや「バレるバレない」の話でなくなった気がするのです。
おそらく、実践をかさねて身についた感覚でしょう。

感覚……といわれても、もちろんだれにも伝わりません。
それを言葉にしてみます。

おおきな要因として「使う空間がおおきくなった」イメージがあります。
物理的にというより、心理的な部分で。

以前のアマチュア満開だったころをふりかえると。
自分の演技の「支配領域」は、両手のあいだと、ひいたマットの上くらいでした。

つまり、ちいさな段ボールくらいのエリアで、演技をしていたのです。
感覚的に。

これではたしかに、妙な技法をするのもためらうわけです。
観客はそのちいさな世界を凝視しているのですから。

この「支配領域感覚」が、最近ではいつのまにかひろがっていました。
感覚的に。

たとえばテーブル全体、客席のうしろまで、部屋のすべて。
ようするに、観客すべて、あたり一帯の空間をとりいれている印象です。

両手やクロースアップマットも関係ありません。
部屋にみえるすべてが舞台なのです。

そう考えると、クラシックパスなんか〝どうでもいい〟気がしませんか。
観客の身につけた腕時計、壁のスイッチ、おちたポテトチップス……くらいのものです。

おおきな空間のなかで、ちいさなものなど存在しないにひとしい。
すくなくとも〝どうでもいい〟くらい、存在感はうすれます。

もちろんショウの最中では、カードは重要な意味をもちます。
しかし物質的には、カードも、あなたの両手も、小品にすぎません。

そういう感覚があるから、クラシックパスを乱発できているのだとおもいます。
実践派のマジシャンには、この感覚がしらずに身につくはずなのです。

技術とは、手のなかでおこなう動作にあらず。
それをかこむ空間のなかの、ひとつの存在にすぎないのでは……そんな感じ。

「パスはすばやくやろうとおもうな、スムーズにせよ」とは、バーノンの言葉です。
そのスムーズとは〝周囲との調和〟でもあるのではないでしょうか。

どうでしょう。
ぜひ技術を徹底した上で、技術を軽視してみてくださいませ。