「単純な美/複雑な美」を合成する?

wa_021

 

 

 

 

 

 

 

「芸術には、その崇高なる簡素をのこしておかなければならぬ。
衣装の豪奢や、舞台装置の華美は、装飾として、動きの偉大さと、登場人物の真実以外を必要としない演劇を殺してしまうものである」
「小さなピエール」アナトール・フランス

 

荷物の量について

 

マジシャンには二種類います。
荷物のおおいマジシャン、すくないマジシャンです。

前者は現場にスーツケースをごろごろ、両手にトランク……そんないでたちであらわれます。
後者は衣装をきてきたり、片手にちょいとしたカバンくらいです。

ちなみに僕は後者です。
その根底には——半分冗談ですが——生きることへの途方もない怠惰があります。

そして、どちらのマジシャンにも信念があるようで。
それは舞台の上にもあらわれます。

〝荷物のおおいマジシャン〟は、ショウをあらゆる道具で彩ります。
次々気のきいた道具をとりだして、舞台はディズニーランドのようにはなやぎます。

〝荷物のすくないマジシャン〟は、厳選した道具で演技をします。
シンプルに、台詞やふるまいなどで場をつくります。

これは生まれもった気質かもしれません。
「自然にそうなってしまうんだ」と、だれもがいいます。

ここで、ちょいと、それぞれの信念を考えてみます。
理由は考えてみたいからです。

 

荷物のおおいマジシャン

 

おそらく——僕はこのタイプでないので推測ですが——舞台芸術・演劇的なのだとおもいます。
あらゆる準備をして、夢の世界を演出しよう、というサービス精神です。
〝ステージマジック指向〟である、ともいえるかもしれません。
デビット・カッパーフィールドのような。

自分に表現したいものがあり、それで観客をつつみたい、ということでしょうか。
そのために小道具をいくつもいくつもとりだすのです——直接演技に関係なくとも。

このタイプのおもしろいのは。
マジックの種・ふしぎさを重視していない(ようにみえる)ことです。
ただ表現したいことのためにマジックを利用——言葉はわるいですが——しているイメージです。

 

荷物のすくないマジシャン

 

こちらは〝荷物〟はすくなければすくないほどいい、と考えているタイプです。
ほぼ、演技に直接関係するものだけで、舞台をつくります。

みがるさ第一です。
そして〝マジックにとどまっている〟イメージです。
演劇やその他の表現のまえに、まず演じるべきはマジックなのです。

マジックを追求するには、最小限の道具でことたりるというわけです。
「最小のもので最大の効果を」はひとつの真実です。

しかし、ただのめんどくさがりとは区別しなければいけません。
道具をはこぶ、そろえるのがめんどうだからというのは、またべつの話です。

 

どちらがいいのか、僕のいまのところの考え

 

さて、どちらに軍配をあげればいいのでしょう。
もちろん、どちらでもいいのです。

これから僕の考え——スタイルについてかきます。
当然のことながら、ただの一意見です。

ひとつに、マジックにも、ある種の〝簡素さ〟は必要だとおもいます。
それが〝美しさ〟ですし、なにより〝演技の強度〟になると考えるからです。

これもアナトール・フランスの言葉になりますが、
「身軽なほうが、より遠くまでとべる」のです。

複雑なものは脆弱です。
ルービックキューブを壁にぶつけるとこわれますが、サイコロならこわれません。

シンプルなものこそ〝つたえやすい・のこりやすい〟のです。
空間的な意味でも、時間的な意味でも、心理的な意味でも。

なにより僕はマジシャンです。
ですから、徹底すべきはマジック——それだけでいいとおもうのです。
演劇やその他の要素を、マジックにもちこむのは好みでありません。

余談ですが、マジシャンの演技をみていて。
「ああ、これはマジックの線をこえてるな」とおもうときがあります。
それは、マジックか、マジックをつかったべつの表現か、というラインです。

あまりに舞台的なものは、マジシャンでなく、俳優がマジックをするようにみえてしまう。
マジックを、たんなる要素にして〝べつのところにいってしまった〟印象をうけるのです。
もちろん〝僕のなかのマジックのライン〟は、ということです。

そして芝居につつまれたマジックは、やや〝弱くなる〟ようにおもいます。
もちろん、ふしぎさを犠牲にして、表現をするということですから。
それが好みでない、というだけの話です。

マジシャンとしては、マジックだけを徹底させるほうが好みです。
徹底させるとは〝無駄をはぎとる〟ことです。

舞台でマジックだけを追求するなら、
最低限のもので、最大の効果をえることにこそ、心血をそそぐべきなのです。

その考えのあらわれが、ひとつに道具のすくなさです。
シンプルな道具で、簡素なマジックを演じる——これが〝演技の強度〟になります。

もちろん、いまやマジシャンには、あらゆる立場があります。
これは〝演劇型〟を否定しているのでありません。
信念の表明です。

 

裏と表のある仕事

 

ここで考えなくてはならないことがあります。
それは「マジシャンには裏と表の仕事がある」ということです。

つまり「どちらもシンプルなほうがいいの?」という問いであります。

結論だけかきます。
これについては「表むき(観客視点)だけ、単純であればいい」とおもっています。
我々がのこしたいものは〝表の演技〟であり〝裏のシステム〟でないからです。

脱線しますが、これがトリックのクリエーターならちがいます。
その目標は〝作品(裏のシステム)をのこすこと〟です。
つまり、その〝作品自体〟が、シンプルである必要があります。
でなくば、すぐれた作品ができても、ひろまらず、だれも演じてくれません。

しかし、我々はマジシャンです。
パフォーマーは、ある時期、咲きほこるだけの花です。
「自分が死んだあとに演技がなくなろうとどうでもいい」ではありませんか。

パフォーマーがクリエーターをかねることもありますので。
簡単に二分できませんが、極論、演技者の本分はそのはずです。
この時代、せいぜい、映像でのこればもうけものです。
その演技が〝再現不能〟であってもいいのです——むしろ、それが伝説というものです。

そして、その表の簡素のために、裏ではあらゆるものをめぐらすべきです。
観客にみせない部分ですから、複雑に徹底してさしつかえありません。
拡散力も、考慮無用です。

こうして考えると、すぐれた演技とは。
「表はシンプルでのこりやすく」「裏は複雑なシステムをめぐらしている」ものであります。
これこそ〝仕事のすべてをみせられないマジシャン〟の、めざすべき地点だとおもいます。

この因果な嘘つき商売。
マジシャンにおいては〝崇高なる表の簡素美〟と〝典雅な裏の装飾美〟が同居できるわけです。
矛盾した概念も、リバーシブルになら融合できる。
裏を凝って、表にださない——たぶん、これが最強のスタイルです。

最後にその究極であろうトリックを。
トミーワンダー〝Ring Watch and Wallet〟です。
「実はスリにあいまして——」と、はじまるこの単純な現象。
これに、どれほどの複雑性がひそんでいることか。

トミーワンダーはもういません。
この演技をするマジシャンもいないでしょう。
けれど、このパフォーマンスは〝強度〟をもちえているのです。