若さの魅力にかまけちゃいけない(「若手マジシャン」という職業)

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「さりながら、この花はまことの花にはあらず、ただ時分の花なり」
「風姿花伝」世阿弥

 

「若手マジシャン」という職業

 

この社会で「若手マジシャン」は、ひとつの職業であり、一定の需要があります。
理由はシンプルです。
iPhoneみたいになんとなくお洒落だから。

ありがたいことです。
ですから——ある程度の清潔感と作法とアルコール耐性があれば——仕事にこまりません。
あたたかい目線で、みなさん味方してくれ、ちやほや拍手までもらえます。

しかし、これがくせものです。
若造が気どった黒スーツでかっこばかりつけるのは危険です。
それが一過性のバブルだと気づかねばなりません。

その手にしたものほとんどが、実力によるものでないからです。
あえていいきるなら「若さの魅力」でえただけです。
ビジネスならいいですが、芸事としてはこれがまずい。

「若さ」というのは、ひとつの、そして最強の価値です。
「未熟さの美しさ」というのは、たしかにあります。
「未完成なもの」を応援したくなるのは、人情の常です。

けれどそれは本筋とずれた評価です。
本来は「芸のみで」うならせるべきなのです。
かなしむべきことに「若さ」でえた拍手は、そのうち枯れてしまいます。

たとえば、マジックショウをしてるとして。
前列の若者たち、女性、子供たち——みんなおおもりあがりとしましょう。
九割がた満足してるでしょうか。

けれど、のこり一割。
部屋の奥には、腕組みしてこわい顔で、こちらをみている〝本物の観客〟がいます。
彼らはよろこんでいるでしょうか——僕はいつも気になります。

 

まことの花とはなんぞや

 

彼らをうならせるのは〝本物〟だけです。
若さにたよった、そのときかぎりの〝時分の花〟などまやかしです。
そのことをしっている観客もいるのです。

というより、だれもが熟知しています。
若いものはいずれ若くなくなる——なんて。
その上で、咲いているあいだだけ、つきあってくれているのです。

そしてこちらの〝時分の花〟の枯れたとき。
無料配布できた財宝はなくなり、まわりのすべてはさっていきます。
そういうものです。

若手マジシャンは——若者は——それをおそれるべきです。
いまのその魅力は〝一時的にかりているもの〟にすぎないのだと。
それがなくなったときにどうするのかを。

それが〝まことの花〟の追求です。

芸の本質はそもそもこちらです。
若さの魅力もなんのその〝本物は枯れない〟のであります。
一時的なものでなく、地道につくりあげるものですから。

若手マジシャンのすべきは、
いま〝時分の花〟あるうちに〝まことの花〟をつくりあげること。
そうおもいます。

最後にひとつ。
ここで「まことの花とはなんですか」などは一切無用。
それは〝秘すれば花〟ですから。