「君の表現は閉じてるんだよ」と小説家にいわれたことがある。

 

 

 

 

 

 

 

 

小説家の知人(先輩?)がひとりいる。

ここで彼の代表作を暴露してやりたいが、その心をぐっとおさえる。

とにかく人生を変えてくれた一人だ。余談だけれど、彼とはじめて会ったとき、ふと気づけば10時間以上もブッ続けに話しこんでいてやべえなと思った。そのオールナイトの翌朝、たがいに疲れた顔で「またな」と別れたけれど、その「またな」は、人生にままある本当の「またな」だろうなと感じたのをおぼえている。

さて、もう何年も前――首相換算すると何人前だろう?――文章を書いては、ひたすら彼にみてもらっていた。いまから思えば、おそれ多いことだ。だが、その当時はおそれを知らなかったのだ。

彼は、僕のつたない文章を頭ごなしに否定するでもなく、実に、ちょうどいい具合にアドバイスをくれた。わけのわからん文章を持ちこむ年下など、さぞ迷惑だったろうと思う。

たとえば「書く素材に遠慮してはいけない。たしかに節度を持つ必要はある。でも遠慮は節度のずっと手前にあるんだよ」なんてふうに。

当時、何度となくいわれた言葉があった。彼は、僕の文章をなんとか良く読もうとしてくれたが、毎回、どうにも首をひねるポイントがあった。

「閉じてる感じがするんだよなあ」

それ以上をたずねても具体的な答えは返らなかった。俺も編集者によくいわれるんだよ。作家のなかでも〝閉じてる開いてる〟って、よくいうフレーズなんだよ。

はっきりいって意味がわからなかった。そんな最近みかける、マンゴーソースのかかったふわふわ系のかき氷の上の方みたいに、ふわっとした言葉で評価されてもなあと思った。しかし同時に気にかかるので――その奥に人生の鍵があるのではと――何度もたずねた。

「閉じてるってなんですか?」

「さあ、なんていうか、自分の殻にこもってる感じかな」

「いい作品は開いてるってことですか?」

「そうだな」

「でも太宰の〝人間失格〟なんて、めちゃくちゃ閉じてるんじゃないですか?」

「あれは――閉じてるようにみせて、めちゃくちゃ開いてるからすげえんだよ」

こんな具体だった。とにかく言語化が難しいことのようだった。あるいは、はっきり言葉にすると僕を傷つけると考えてくれたのかもしれない。それで最後には、俺だって、いまだに悩んでるんだからさと彼は笑った。

「相手がつかんでくれるかわからないけどさ」もうひとつだけ彼の言葉を書いておく。まったく関係ない文脈での台詞だがどこかでつながっている気がしたから。彼の言葉はいちいち尖らせた鉛筆で書いたみたいに胸にのこった。「それでも、こっちは手を開きつづけてなきゃいけないんだよ」

あれから何年も経った。時間というのは、ほっておくと何年も経つのだ。その間、それなりに表現について考えてきたつもりだ。いまならば〝閉じてる開いてる問題〟について、ちょっとだけわかる気がする。たぶん。

「閉じている」とは「作品のなかに受け手が存在していない」状態をさすのだと思う。

くどい書き方をすると「受け手のことを考えず、作者のエゴだけで作られたもの(読者の入りこむ余地のないもの)」なのかなという感じ。

優れた作品は、かならずといっていいほど、受け手のことも考えてデザインされている。少なくとも文章は〝共通言語〟を使って、読者の頭のなかにイメージをつくる作業だから、そもそも理解されないといけない。

反対に「そんなもの知るか。拙者は書きたいように書く、作りたいように作る。どう受けとるかは観客次第でござる」というのは、他人とコミュニケートできない弱さなのではと思ってしまう。少なくとも「やりたいように」のなかに、なぜ「他者の心にも響くように」があってはいけないのだろうか。サムライなのか。

いまさらだけれど他人の作品(文章でもマジックでも、その他でも)をみながら「ああ、閉じてるなあ」と感じるときもある。たぶん必死なのだけれど、まだまだ自我にとらわれている感じ。つまるところ、その作者の人生のなかに「ちゃんと他者が存在しているかどうか?」が作品にもあらわれるのかなと思っている。

そんなとき、なにかをいってやりたくもなるのだけれど、どう言葉にしたところで伝わらないもどかしさも感じる。あのときの彼のように――彼もそうだったのか? ようやくわかってきたことだけれど、この世には、大事なことほど言葉にできないという法則があるのだ。

優れた作品は、開かれていなくてはならない。

こんなもの、悩んで、悩んで、悩んで、たまに喫茶店にいって、悩んで、悩んで、悩んで、なんとかわかってくるしかないんだろうなと思う。いまだに僕もわかんないけどね。