なあ俺たちは一度マジックを捨てなきゃいけないんだよ。

まあ、怒らずきいてくれ。

昨日、マジックバー「IDEAL」に学生時代の後輩がきてくれました。おめでとうございます、と、可愛い花をもらいました。

「そういや」そのあと後輩はカウンターにつくなり言いました。「浅田さんのマジックまったくみたことないですね」

ちょいと驚きました。さすがに一回や二回はあるだろうと思ったから。

僕は台風のときに窓の外を鯉のぼりの三倍くらいの謎の長い布みたいな物体が伝説の龍みたいに駆けあがるのをみて撮影しとけば絶対バズったやんという話をしてへらへら笑いながらも、ああ、日常でマジックをしなくなって、もうそんなに経つのか、と感慨深くなりました。

いまでも日常で演じることはありません。気づけば演じなくなったのではなく、あるときから意図的に演じるのをやめたのです。

マジックは劇薬であります。

言葉をかえた方がよければコミュニケーションの飛び道具です。めっちゃ「すごいすごい」と、もてはやしてもらえるのです。

これがピアノやサッカーなら相当の努力をしないといけません。でないと拍手をもらえるレベルになりません。でもマジックに限っては、少しの練習だけでヒーローになれるのです。種があるから。裏側はみせなくていいから。

マジックをかじった人間なら、マジックって、観客が想像するほどには斬新高度な裏側があるわけではないって知ってますよね。どちらかというと、馬鹿馬鹿しいものを積みあげてハッタリをかましてドヤ顔するのが仕事みたいな感じです。

たいしたことない種を、すげえ魔法のようにみせるわけです。

まあ、それ自体は別にいいと思います。むしろ、システムの勝利というか、すごいことかもしれません。

僕もそう考えていました――いや、そのことについて考えたことはありませんでした。むしろガラスの10代後半ごろから「マジックってやばいやん。人生を変える魔法やん」と、まわりの拍手をうけとっては興奮してました。

しかし、あるとき気づきました。

「あれ? この拍手や賞賛って僕にむけられたものなの?」

考えるだけでも恐ろしいことでした。そういうのって一度気づいちゃうとダメですよね。そして考えるほどに、僕ではなく、マジックそのものに観客が集まっているだけだという事実を突きつけられました。

例えば、僕でなく、僕の隣の席のやつが同じマジックをしたら、まわりの観客たちは、そっくりそのまま隣の席に民族大移動するだろう――そういうことです。

わお。

「あ、このままではマジックにパワー負けするやん」

「マジックの主人にならなあかんのに、マジックの奴隷になってるやん」

「このままでは、あかんマジシャンになってまいそうやん」

「自分自身は成長できんくなるやつやん」

んで、そんなことを考えました。

そのときから「日常ではマジックを演じない」という選択をしました。けっこう思いきった決断だった気がします。いまから思えば、どうでもいい感じもしますがきっとそのはずです。

はじめは「なんで?前はマジックみせてくれたじゃん」などと言われることもありました。しかし、これも芸と人生のためだと。ほんとうに、そのときの僕にとって、それが大事なことだという気がしていたのです。

喫煙者が禁煙するようなものです。禁断症状で眠れない夜もありましたが――本当はありませんでしたが――なんとか耐えていまにいたるというわけです。

「マジックなしに観客を魅了できないようでは、マジックをしても観客を魅了することはできない」

これは、そのときの心のなかで何度もくりかえしていた言葉です。ある種の信仰のようなものでした。しかし、いまでは思いだすこともなくなりました。あたりまえやんという感じがするからです。

僕はいまでも「いいマジシャンになりたいんですけどどうすればいいですか?」と質問されたら「一度マジックを捨ててみたら?」と答えます。

すると、このひとアホなんかなという顔をされます。

しかし本心ではあるのです。

マジックがスキルアートでなく、パフォーミングアート(最近の持論ではパーソナリティアートではと考えています)である限り、いかに裸で人間に向き合えるか(猥褻物陳列罪ではない)が重要になってくるからです。

僕はある時期から、舞台の外で、マジックを演じることをやめました。

僕にとってはマジックをみせて得られる賞賛より、マジックなしに素の自分で得られるものの方が心地いいからです。そこで獲得したものを舞台の肥やしにすることこそ、芸のためだと考えているからです。

それで得たものもあります。みえた世界もあります。同時に失ったものもあるかもしれません。どっちがよかったのかはわかりません。

しかし、これからも日常で演じることはないだろうなと思います。