気まぐれに野球選手が庭でバットをすぶりしたくなるような気分のときにツイッターでエッセイのお題を募集することがある。
今回は「軽いのにしてくれよ」と注文した。朝から喫茶店にいきっぱなしの頭を休めたかったからだ。
恋。
恋。
わお。
どう考えてもヘビィじゃないか。人生の一大イベントじゃないか。
もっと「スイカ」とか「たぬき」とか「キャラメルポップコーン」とかを期待していたのに──これだから人生は一筋縄ではいかない。
かくして、僕は、どうにか「恋」を書き切らなくてはならなくなった。
さて「恋」と聞いたときに、僕は、どうしても「愛」という言葉を連想してしまう。正確にいえば「恋と愛の違いはなんだろう?」という問いを思いだしてしまう。
この二つは「ポケットモンスター緑」の横に「ポケットモンスター赤」があるくらいセットで僕の頭のなかにあるのだ。(この一文は後でどう考えても削除すべきだと考えたが人類の負の遺産として残しておく)
「恋と愛の違いはなんだろう?」
ふとこの問いについて考える。いくつか、それっぽい答えに出会ったこともある。そういう言葉遊びが好きなのだ。発表するからとくと味わえ。
①「恋はするもの。愛は与えるもの。」
小学生のことにウッチャンナンチャンの南原さんがテレビでドヤ顔で披露していたものだ。子供心に、なぜか覚えてしまった。いまもふと思いだしたので書いてみた。
②「恋は服を着せる。愛は服を脱がせる。」
外国の文学者の誰かがどこかで書いていた。まったくもってその通りだ。これに首を縦にふらない人間はいないんじゃないだろうか。ルミネの伝説的なコピーに「試着室で思いだしたら本当の恋だと思う」があるけれど、そのものズバリだ。
③「恋は強いところをみせたくなる。愛は弱いところをみせたくなる。」
上の②を自分なりに解釈してみた。恋はまだ相手に近づけていない感じ。どこか背伸びして、相手に自分の存在を伝えたくなるところがある。反対に、愛はすでに近しい場所にいる感じ。相手にすべてをさらけだしたくなるイメージ。
④「恋はひとりでできる。愛はふたりじゃないとできない。」
これも前に考えたもの。
恋は一人称だ。憧れの先輩にだって、坂本龍馬にだって、テレビのなかのスターにだって恋はできる。自分ひとりで恋はできる。ある意味「風邪」みたいに「自分の状態」をさす言葉なのではと思う。
愛は二人称だ──この言い方が適切なのかわからないけど。相手がいないとはじまらない。擬似的な愛っぽいものを顔を会わせたこともない他人に投げかけることはできるけれども。
つまり愛とは、ふたりのなかで育むものなのだと思う。少なくとも、ひとりの世界で作りあげることはできない。なぜかはわからない。この街がまだジャングルだったころから、そうなっているのだ。
もちろん、恋にも、愛にも、それぞれの美しさがある。
しかし恋はいつしか、愛に変わる。
そして恋は愛に変わることはできるけれど、愛は恋に変わることができない。
そういうものだ。
ここで、そろそろ文章を書き終えてもいいかなと思いつつ、ふと自分の胸に手をあててみた。
それなりに人生をすごしてきた。いつのまにか「愛することができる人間」になれていたとしても「恋することができる人間」ではなくなってきている気がするなと思った。ちょっと、さびしいな。
あ、最後にひとつだけ。「愛」というワードで思いだした(体にする)けど、女性用情報サイトにて「読むだけでモテる恋愛小説」を連載してます。読め。