青年は地獄を生きる①「人生の運転席には君がすわらないといけない」

「青年は地獄を生きる・若さを武器に変えるサバイバル術」という物騒なタイトルをつけてしまいました。

最近、よく青年の相談を受けます。

二十歳そこそこでしょうか。みな「人生をどうすればいいかわからない」といった顔をしています。まだ何者にもなれていないことに葛藤している様子です。

・自分の力を証明したい
・何者かになりたい
・独立したい
・自分には才能があるはずだ
・まわりが就活してることに焦りをおぼえている
・有名になりたい
・普通の人生をおくりたくない
・なにかを成しとげたい
・なにをすればいいかはわからない
・このままじゃダメな気がしている
・わけもなくくやしい

そんな話を聞いていると、ふと懐かしくなります。僕だって二十歳だったときはあります。その感じていることがわかるからです。

そして次の瞬間には、なにかを言葉にしたくなります。なにかを言葉にしたい衝動にかられる、といった方が正確かもしれません。

もちろん僕がなにかを成しとげたわけでもありませせん。何者かになれたわけでもありません。ただ数年先に生まれただけ。人生ゲームでいうなら数マス先に進んでいるだけです。

そこで知ったことや感じたことを書いてみようと思いました。

僕だって、それなりに青い地獄をくぐりぬけてきた自負がある──あるいは現在も。その一つひとつを言葉にしてみたい。不定期連載の形で。いわば〝心の棚おろし〟みたいなものです。

まったくの自己満足かもしれません。わかりません──それはこれから僕の指がキーボードのどこを彷徨うかにかかっているのでしょう。少なくとも本気で書くつもりです。生きる術を。君の人生の役に立つことを願って。

さて、なぜこうも青年期は生きずらいのか。そんな解説をするつもりはありませんが──君もすでに痛感してることだろうから──ひとつに「生きることをしなくてはいけなくなるから」だと思います。

ギリシャの哲人か誰かが「生涯で人は二度生まれる。一度目はこの世に誕生したとき。二度目は存在しようとするとき」といってました。

まさに、この二度目の生まれの苦しみというやつでしょう。

もう少し具体的にいきましょう。

最近、僕もようやくわかってきたことですが、どうも「人生は運転席にすわらないといけない」らしいのです。

それまでは阿呆のように口をあけて、誰かが用意したプランの上にエスカレーターみたいに乗っかってるだけで栄光の人生を歩めると思っていました。

でも、それは間違いだった。

言葉を変えると、だれかに乗っかるようなプランはことごとく上手くいきませんでした。そりゃそうです。人はみんな自分がかわいい。だから、本質的に「君のために心から動いてくれる人間は存在しない」からです。僕たちは、他人と、気がむいたときか利益が一致した場合にのみ手をむすぶことができるにすぎません。

僕は阿呆だから、そんなことに気づくのに時間がかかった。

もう一度書きます。

人生の運転席には君がのらなくてはいけない。

くれぐれも助手席や、いわんや後部座席でぼけっとしてるだけで目的地にたどりつけると考えてはいけない──らしいのです。どこかに到着はするでしょう。けれど、それは他人にとっての都合のいい場所でしかないのです。

ハンドルをにぎること。死ぬまで離さないこと。

それは全責任を負うことでもあります。いままで助手席に座ってるだけでどうにかなったからには──まわりに保護されていた──未知の恐怖ですよね。手も足もガクガクふるえます。首もくくりたくなるでしょう。

文字通り、生きるか死ぬか。目の前にはなにもない。仲間もいない。一寸先もみえない聞こえない感じられない──青い地獄のはじまりです。

しかし、こんなにスリリングなこともない。最近はそう感じてもいます。そう感じることができるようになってきました。どこにたどりつくかはわかりませんが──あるいは虚勢か──道のりを楽しむ余裕もできてきました。

最後にもう一度だけ書きます。本当に大事なことだと思うからです。この言葉は、僕が、ちんけな人生でつかみとった果実です。もし稚拙に思えるなら笑い飛ばしてください。そして君の道をかっ飛ばしてください。

人生の運転席には君がのらなくてはいけない。

さて、こんな感じで第一回は終わるとします。この文章自体も、どこにたどりつくのか僕自身わかっていません。

そして、いま、ふと思いました。本当のところ、僕が書きたいのは、ずっと前の、どこかに走りだしたい衝動を抱えて、それでもどこにもいけなかった自分にむけた手紙なのかもな、と。