最近、僕はマジシャン/ライターと名乗ることが多くなってきました。
こないだ「立てばマジシャン・座ればライター」といったら後輩のマジシャンから「なにいうてるんですか(アホなんですか)」みたいな顔をむけられました。
僕はなぜマジシャンなのに文章ばかり書いているのか?
理由は七個くらいあります──数えてないけど。そのうちの一つを説明しようと思います。後輩のマジシャンにも話したことがあります。しかし毎度、微妙な顔をされるので心配ではあるのですけれど。
さて、マジシャンは「魔法使いを演じる役者である」という言葉があります。
オフコース。そのままの意味です。僕もマジシャンであるからには「魔法をみせる」ことに憧れてきました。観客に〝魔法っぽさ〟を感じてもらえるかだけが全てだったのです。
これは他のマジシャンより──彼らはマジックそのものを好んでいるようにみえる──その傾向が強い気がしています。技術で成しとげたような演出や、マジックマジックしたマジックはついに好きになれませんでした。
まあ、そういう好みのマジシャンだったのです。
しかし七年目くらいからでしょうか。あるときから「マジックをすることでより一層、魔法から遠ざかってしまう」気がしはじめたのです。
わけわかんないですね。いつも説明に困るところです。がんばって説明するぜ。
えっと、まず前提として、この世に魔法はありません。身も蓋もないですが。みなさんもご存じのはずです。それを、どうにか嘘をついて「魔法のようにみせる」のがマジックなわけですよね。
この世にゴジラはいないけど、着ぐるみを使ってゴジラがいるようにみせる、みたいな感じです。前者が魔法、後者がマジック。外見は同じですが、後者は嘘をふくんでいます。
マジックはどうがんばっても魔法になれません。それどころか存在自体が「魔法から最も遠いもの」だともいえるのです。限りなく本物に近いプラモデルは、ある意味では、本物から最も遠い偽物だといえるみたいな感じです。
もちろん世には恐るべき才能や技術や知略をもったマジシャンもいます。彼らが、その実現に血と汗と涙を流しているのも知っています。マジシャンが涙するほど〝魔法にしかみえない〟のも知っています。
しかし僕にとっては「すごくよくできた偽物」にしか思えなかった。
なぜならマジックだから。
ここで僕は「マジックはより少ない方が魔法性をおびる」と考えるようになりました。マジックショウやレストランのテーブルをまわるときにも、あえて少なく演じることで、観客のなかに「魔法」として記憶してもらいたかったのです。
考えてもみてください。
目の前にマジシャンがあらわれて一枚のコインを消したとしましょう。そこでマジシャンは去ります。生涯おぼえていたくなるくらいの魔法にみえますよね?
しかし、彼が、そのあと何枚もコインを取りだして、消して、出して、貫通させて、トランプを取り出して、なんかした日には「なんだマジックか!」と感じてしまいませんか? 僕が嫌ったのはそこでした。
これについてはここに書きました。読むとドツボだけど置いときます。
そのあと僕は「もはやマジックは演じない方が魔法性をおびるのではないか?」と考えるようになりました。なぜなら嘘が最も少ない形だからです。この発想、マジでパラノイアですよね。
ただ観客が「この人は魔法使いなのかもしれない」と感じた場合。なにも演じないことが最も魔法性を保つことになる、というのはありえる話なわけです。演じないぶんには、魔法使いとマジシャンの差は存在しないからです。
職業として、普通、それは成立しません。
しかしよく考えると、インターネットならば、それが成立すると思ったのです。
マジックを演じないで魔法を作りだすことができると思ったのです。観客の人生をふるわせるような。最後のときまで記憶してもらえるような。なにがしかの真実を。それがどんなものなのかは模索中です。
古来より、マジシャンはトランプやコインを道具として扱ってきました。しかし、それは「それでなくてはならなかったから」ではありません。たんに扱いやすかったからです。嘘をつくのに適した形状をしていたからです。
そう考えると、その道具に縛られる必要は、まったくないわけです。マジシャン=トランプやコインを練習する、という等式は危険だともいえるのです。
本来的には、マジシャンは魔法使いのふりができるのなら(観客に魔法性を感じさせられるのなら)どんなものを使ってもいいはずではありませんか。
例えば現代ならば、インターネットやSNSや言語の力を使って──という挑戦をしているマジシャンのアカウントがこちらになります。↓フォローせえ。