浅田さんのシェアハウス一覧



<水道光熱費・ネット・初期費用無料>
家賃には「水道高熱ネット代」が含まれています。入居時の敷金礼金も必要ありません。本当に毎月、家賃だけで住むことができます。

こちらの「YESシェアハウス」に浅田さんの経営しているシェアハウス一覧があります。LINEでの見学問い合わせもできます。ぜひ見てね!

https://yes-sharehouse.com/

①シェアハウス「ティータイム」(大阪環状線 桃谷駅10分)

リビング
ワークスペース
アイランドキッチン

<場所>
大阪市 生野区 桃谷3丁目3-14(桃谷駅10分・鶴橋駅12分)

<人数>
男性6名・女性5名
※建物内には「女性専用フロア」があります。女性用バス・トイレ・洗濯物干し場もあるので安心です。

<こんな人にオススメ!>
・お洒落なリビングにすみたい!
・とにかく安く住みたい!
・みんなと交流したい!

<女性専用ベッドルーム(定員4人)>

・月額4万円
・カプセル式。ベッドにカーテンも付いているので半個室になります。プライベートはバッチリです。化粧台も完備。

<女性個室(定員1名・限定)> 先約済

女性個室

・月額5.5万円
・完全個室です。
・収納もバッチリです。

<男性ドミトリー(定員6名)>

・月額3.8万円
・カプセル式。ベッドにカーテンも付いているので半個室になります。プライベートはバッチリです。

②ホテルアパートメント「ワンミニッツ鶴橋」(鶴橋駅1分)


この部屋にひとりで住んでいただけます。各個室とも同じ内装になります。二段ベッドの上段は荷物置き場として使えます。
全体マップ
洗面台
キッチンは廊下にあります

<場所>
大阪市生野区鶴橋2丁目2-14(近鉄鶴橋駅1分・JR鶴橋駅3分)

<男性4名・女性5名>
※建物内には「女性専用フロア」があります。女性用バス・トイレ・洗濯物干し場もあるので安心です。

<特徴>
・男女フロア別
・女性管理人が住みこみで滞在しているので安心
・ホテルアパートメントならではのタオルの無料洗濯サービス付
・トイレ、シャワールーム、洗面台、キッチンは共有
・ベランダに洗濯場あり
・二段ベッドのある部屋にひとりで住むことができます。上段は収納としてお使いください。付近には飲食店や温泉施設がたくさんあります。

<こんな人にオススメ!>
・完全個室でプライペートを確保したい!
・とにかくアクセス重視!(梅田・難波まで1本)
・数ヶ月だけ大阪に旅行してみたい!

<料金>
月額4.8万円

青年は地獄を生きる③「卑屈に逃げるな。君はそこから脱獄できるはずだ。」

ある時期、卑屈に取り憑かれていました。

あらゆる健全なものにケチをつけていました。あれは偽善だ、これはオシャレぶってる、なにが楽しいんだ、みんな阿呆じゃないか──という感じに。

いまならばわかります。その心は、完全に「あちら側」に対する嫉妬でした。僕の「こちら側」は苦しいのに、なんで、みんな楽しそうなんだよ、と。世になじめない自分にコンプレックスを感じていたのですね。

しかし、当時、そんなこと気づきもしませんでした。あるいは気づかないふりをしていました。若さゆえに認めることができなかったのです。己がちっぽけな存在であることを。

自分を否定できない以上、世界を否定するしかなかったのです。そうでないと心のバランスをとれなかった。そうしないではいられなかった。

そして〝卑屈〟という精神は鈍色の癌のように心の底に住みつきます。

世界は、あなたの観察の仕方に応じて姿を変えます。愛に満ちた人間にとって、世界が愛に満ちたものになるように。つまりケチをつけながら世のなかをみると、いくらでも世の中はグロテスクに映ります。実際、そう考えるのは簡単です。そこそこ汚いものはあふれてますから。

青年はこう考えます。「自分はなんて酷い世界で生きてるんだ」と。

それは「この世は生きる価値がない」という考えにたどりつきます。

その先は無気力な生活が待っています。朝おきて、自堕落な部屋のなかで、輝いてみえるものに嫉妬をぶつけるだけ。夢もない。希望もない。そして、ときには、お気に入りの玩具をもてあそぶように死すら考えたりします。

世界に生きる価値はないのだから。自分の命すらどうなろうが構わない、というわけです。

それだけならまだしも他人の命すら──という恐ろしい結末もあるのかもしれません。幸いにも、僕はそちらの扉を開けませんでたけれども。理屈はわかります。

さて、ここで断っておきたいことがあります。

僕には、そうした君の世界や状態や感情を否定するつもりはないということです。一切。この段階で、それだけは伝えておこうと思います。

君の考え方は間違っている。世界は美しい。気の病だから目をさませ、と、朝の七時半に布団をひっぺがすこともしません。朝日を浴びればセロトニンが分泌されるんだよ、なんてアドバイスもしません。その程度で変わるなら、君は、そもそも青い地獄に落ちていないでしょう。

もう一度言います。

僕は、君の、その全てを否定しない。

なぜなら、それは、いまの君にとって真実だから。

そして、いつか、君が、誰の言葉も借りずに、自力で生還してなくてはならないから。

だから、ここでは、いくつか僕が感じたことを言葉にするだけです。どうか説教やアドバイスだと思わないでください。僕は、僕のかつての真実を書く。それだけです。僕にとっての救いや光が君にとってもそうだとは思っていない。君の真実があるように、僕の真実がある。それはどこか遠い地点で共鳴することもあるかもしれない──というだけのことです。

さて「この世は生きる価値がない」の青い地獄にもどりましょう。

これを考えるとき、僕が、いまになって思うのは「この世は生きる価値がない」という呪いの言葉は「この世にとって自分は価値がない」という意味だったのだろう、ということです。錆びたコインの裏表のように。

もっといえば、後者をカッコよく言い換えていただけなのかな、という感じです。

自分には成すべき偉大な仕事や、世の問題点をみぬく洞察力や、それを変革する才能があるはずなのに──はずなのに──はずなのに──それを成しとげる力を持ち合わせていないという感覚。

あえて言い切りましょう。おそらく青い地獄の正体は「無力感」です。

世を観察する力がわずかにあったとしても〝無力〟だから、どうすることもできないから、わけもなく悲しかったのです。負け犬の遠吠えしかできなかったのです。卑屈に陥ったのです。

しかし、考えてみれば、それも当たり前の話でした。

なぜなら、なにもしていなかったから。

あるいは「それっぽいことをして力尽きたふりをしていた」だけだったから。

自分が〝無力〟なのは当然だったのです。それまでは、なぜか、なにもしなくても世の主人公でいられる気がしていたのですね。努力もせずに。気づいたらヒーローになれているのではと。その幻想を打ち砕かれたわけです。

それは、こう言葉にできるでしょう。

なにもしていない人間が何者かになれるわけがない。何者かになりたければ何かをしなくてはならない。

こうして書いてしまえば当たり前のことに思えます。たった45文字で説明をつけられます。しかし、僕は阿呆だから気づくのに若い年月を捨てることになりました。

そして残酷なことに、その事実に気づいたからといって救いはありません。

だって、あいかわらず自分は無力なのですから。

そこからが本当の地獄だったのです。

いわば自分が牢屋にいることに気づいた囚人みたいなものです。まだ気づかない方がましだったかもしれません。自分は悪くないと、世界に、卑屈な唾を吐いていた方が幸せだったかもしれません。

しかし気づいたからには足掻くしかなかった。

それが大仕事になることはわかっていました。おそらく若さの大部分をドブのなかに捨てるような作業になるだろうことも。その果てに大事なものを失うことも。そして最後に報われるかどうかすら保証されていないことも。なにも得られないかもしれないことも。

僕は背後に真っ黒な太陽が昇っているのを感じました。

そして次に手もとを確認しました。リングにぶらさげた何千本もの鍵束と──どれが正解かもわからない──小枝のように細いやすりだけは与えられているようでした。

そのとき頭に浮かんだのは、脱獄、の二文字でした。

青年は地獄を生きる①「人生の運転席には君がすわらないといけない」
青年は地獄を生きる②「その程度でバッドエンドのつもりか。君のストーリーは途中だろ。」
青年は地獄を生きる③「卑屈に逃げるな。君はそこから脱獄できるはずだ。」

青年は地獄を生きる②「その程度でバッドエンドのつもりか。君のストーリーは途中だろ。」

ある時期、人生のすべてが終わった気がしていました。

世界のすべては敵に思えたし、才能は枯れたし、この手はからっぽだし、夢は潰えたし、幸福は手に入らないし、わが身はどこにもいけない────といった感覚です。理性を失いたいがためだけにウイスキーとチェイサーにビールを飲み続けたこともありました。

自分がいるのは地獄の色をした終着駅だ、と。

しかし、いまとなっては、なにが〝終わり〟だったのか良くわかりません。

こうして僕はのうのうと生きているし、それなりに、けろっと楽しく──無論楽しいことばかりでありませんが──やっているからです。

あの〝どこにもいけない感覚〟はなんだったんだろう?

というのが本音ではあります。

もしや、僕は、かつて嫌った〝葛藤をやめて適当に社会に順応した大人〟になってしまったのでしょうか?

そうではないと信じたいです。

というのも、いまも心のなかに、あのときの青い地獄の感覚は生きているからです。いつだって地獄は心のなかにあって、こちらをのぞいています。崖面に腹をつけて細い道をにじり歩くように、うっかり踏み外すと、ぱらぱら落ちる砂と共に、どこまでも吸いこまれそうになる。

ただ、そうした中にあっても「やるしかねえな」と腹を括れるようになったのだと思います。それくらいには強くなった。そして、それは僕の人生のなかでは大きな変化でした。

あるときベストセラー作家の大沢在昌氏が「小説の書き方」を語るなかで、面白いことを書いていました。

「小説のキャラクターは最後のページになるまで物語を降りることができない。どうあっても挫けるように設定するわけにいかない」

という内容でした。

確かに、主人公がドロップアウトすればストーリーは終わります。絶対に挫けてはならないのです。本にならないから。挫折しても復活しなくてはならないのです。

同時に、大沢氏は「これが現実と小説のキャラクターの違いである」と書いていました。

厳しい言葉ですよね。つまり現実世界の人間はドロップアウトできるのです。いとも簡単に。君だって、そうした人間をまわりに何人も思い浮かべることができるでしょう?

君がそうなりたくないことは知っています。しかし、そうなりそうで眠れない夜を過ごしていることも知っています。

すでに終わった気がしているのでしょう?

世界に見放された気がしているのでしょう? 

人生を楽しむ資格がない気がしているのでしょう?

冒頭に書いたように僕もそうでした。いまだに人生を楽しむことに罪悪感すらあります。

しかし、それでも、僕は──君は物語を降りるわけにいかない。

いつのころからか、そう考えるようになっていました。なぜそう考えるに至ったのかはわかりません。おそらく極まりすぎて、あるとき一周したのだと思います。劇的な瞬間などありません。僕や、君や、ものごとはゆっくり変わるものですから。

いや、象徴的なできごとはありました。

いま思いだしたから書いておきます。まさか書くことになると思わなかったけれど。これもめぐりあわせでしょう。そんな時期、ある夢をみたのです──本当ですよ。

夢のなかで、僕は古びた図書館にいました。薄暗く、そこには誰もいませんでした。なにげなく奥の本棚に立ち寄ると、一冊、緑の装丁の本が気になりました。

その一冊の本を手にとりました。そしてたぶん最初のページを──というより、その本にはそのページしかなかった気がする──開きました。

「大事なのはここから何をするかではないか?」

そこには一行だけこう書いてあったのです。

目が覚めたあと、ぼうっとその言葉について考え続けました。いまも悪い予感がした夜や、憂鬱な雨の日や、他人と衝突したあとに思いだします。すると、いくぶん元気をもらえます。ここからがスタート地点じゃないか、と。

いいですか。

君はまだ〝終わって〟いない。ちっとも。

確かに、失ったものは大きいかもしれない。悲しみもあるかもしれない。しかし、失うことで、はじめてその価値を理解できたはずです。それを取りかえそうと試みてください。完璧に同じものを取りかえすことはできないかもしれない。それでも試みなくてはいけません。

なぜなら、君は、主人公だから。

君は、君の物語を降りるわけにいかないからです。

どう考えても、君は、物語のページの途中にいます。

いまは地獄のように思えるかもしれません。この世に救いなど存在しないように思えるかもしれません。心には寒い風が吹いているでしょう。しかし結末ではない。断じて。君は若い。君には、まだ打つべき手がある。

その程度でバッドエンドのつもりか。君のストーリーは途中だろ。

青年は地獄を生きる①「人生の運転席には君がすわらないといけない」
青年は地獄を生きる②「その程度でバッドエンドのつもりか。君のストーリーは途中だろ。」
青年は地獄を生きる③「卑屈に逃げるな。君はそこから脱獄できるはずだ。」

僕はなぜマジシャンのくせに文章ばかり書いているのか?

最近、僕はマジシャン/ライターと名乗ることが多くなってきました。

こないだ「立てばマジシャン・座ればライター」といったら後輩のマジシャンから「なにいうてるんですか(アホなんですか)」みたいな顔をむけられました。

僕はなぜマジシャンなのに文章ばかり書いているのか?

理由は七個くらいあります──数えてないけど。そのうちの一つを説明しようと思います。後輩のマジシャンにも話したことがあります。しかし毎度、微妙な顔をされるので心配ではあるのですけれど。

さて、マジシャンは「魔法使いを演じる役者である」という言葉があります。

オフコース。そのままの意味です。僕もマジシャンであるからには「魔法をみせる」ことに憧れてきました。観客に〝魔法っぽさ〟を感じてもらえるかだけが全てだったのです。

これは他のマジシャンより──彼らはマジックそのものを好んでいるようにみえる──その傾向が強い気がしています。技術で成しとげたような演出や、マジックマジックしたマジックはついに好きになれませんでした。

まあ、そういう好みのマジシャンだったのです。

しかし七年目くらいからでしょうか。あるときから「マジックをすることでより一層、魔法から遠ざかってしまう」気がしはじめたのです。

わけわかんないですね。いつも説明に困るところです。がんばって説明するぜ。

えっと、まず前提として、この世に魔法はありません。身も蓋もないですが。みなさんもご存じのはずです。それを、どうにか嘘をついて「魔法のようにみせる」のがマジックなわけですよね。

この世にゴジラはいないけど、着ぐるみを使ってゴジラがいるようにみせる、みたいな感じです。前者が魔法、後者がマジック。外見は同じですが、後者は嘘をふくんでいます。

マジックはどうがんばっても魔法になれません。それどころか存在自体が「魔法から最も遠いもの」だともいえるのです。限りなく本物に近いプラモデルは、ある意味では、本物から最も遠い偽物だといえるみたいな感じです。

もちろん世には恐るべき才能や技術や知略をもったマジシャンもいます。彼らが、その実現に血と汗と涙を流しているのも知っています。マジシャンが涙するほど〝魔法にしかみえない〟のも知っています。

しかし僕にとっては「すごくよくできた偽物」にしか思えなかった。

なぜならマジックだから。

ここで僕は「マジックはより少ない方が魔法性をおびる」と考えるようになりました。マジックショウやレストランのテーブルをまわるときにも、あえて少なく演じることで、観客のなかに「魔法」として記憶してもらいたかったのです。

考えてもみてください。

目の前にマジシャンがあらわれて一枚のコインを消したとしましょう。そこでマジシャンは去ります。生涯おぼえていたくなるくらいの魔法にみえますよね? 

しかし、彼が、そのあと何枚もコインを取りだして、消して、出して、貫通させて、トランプを取り出して、なんかした日には「なんだマジックか!」と感じてしまいませんか? 僕が嫌ったのはそこでした。

これについてはここに書きました。読むとドツボだけど置いときます。

そのあと僕は「もはやマジックは演じない方が魔法性をおびるのではないか?」と考えるようになりました。なぜなら嘘が最も少ない形だからです。この発想、マジでパラノイアですよね。

ただ観客が「この人は魔法使いなのかもしれない」と感じた場合。なにも演じないことが最も魔法性を保つことになる、というのはありえる話なわけです。演じないぶんには、魔法使いとマジシャンの差は存在しないからです。

職業として、普通、それは成立しません。

しかしよく考えると、インターネットならば、それが成立すると思ったのです。

マジックを演じないで魔法を作りだすことができると思ったのです。観客の人生をふるわせるような。最後のときまで記憶してもらえるような。なにがしかの真実を。それがどんなものなのかは模索中です。

古来より、マジシャンはトランプやコインを道具として扱ってきました。しかし、それは「それでなくてはならなかったから」ではありません。たんに扱いやすかったからです。嘘をつくのに適した形状をしていたからです。

そう考えると、その道具に縛られる必要は、まったくないわけです。マジシャン=トランプやコインを練習する、という等式は危険だともいえるのです。

本来的には、マジシャンは魔法使いのふりができるのなら(観客に魔法性を感じさせられるのなら)どんなものを使ってもいいはずではありませんか。

例えば現代ならば、インターネットやSNSや言語の力を使って──という挑戦をしているマジシャンのアカウントがこちらになります。↓フォローせえ。

青年は地獄を生きる①「人生の運転席には君がすわらないといけない」

「青年は地獄を生きる・若さを武器に変えるサバイバル術」という物騒なタイトルをつけてしまいました。

最近、よく青年の相談を受けます。

二十歳そこそこでしょうか。みな「人生をどうすればいいかわからない」といった顔をしています。まだ何者にもなれていないことに葛藤している様子です。

・自分の力を証明したい
・何者かになりたい
・独立したい
・自分には才能があるはずだ
・まわりが就活してることに焦りをおぼえている
・有名になりたい
・普通の人生をおくりたくない
・なにかを成しとげたい
・なにをすればいいかはわからない
・このままじゃダメな気がしている
・わけもなくくやしい

そんな話を聞いていると、ふと懐かしくなります。僕だって二十歳だったときはあります。その感じていることがわかるからです。

そして次の瞬間には、なにかを言葉にしたくなります。なにかを言葉にしたい衝動にかられる、といった方が正確かもしれません。

もちろん僕がなにかを成しとげたわけでもありませせん。何者かになれたわけでもありません。ただ数年先に生まれただけ。人生ゲームでいうなら数マス先に進んでいるだけです。

そこで知ったことや感じたことを書いてみようと思いました。

僕だって、それなりに青い地獄をくぐりぬけてきた自負がある──あるいは現在も。その一つひとつを言葉にしてみたい。不定期連載の形で。いわば〝心の棚おろし〟みたいなものです。

まったくの自己満足かもしれません。わかりません──それはこれから僕の指がキーボードのどこを彷徨うかにかかっているのでしょう。少なくとも本気で書くつもりです。生きる術を。君の人生の役に立つことを願って。

さて、なぜこうも青年期は生きずらいのか。そんな解説をするつもりはありませんが──君もすでに痛感してることだろうから──ひとつに「生きることをしなくてはいけなくなるから」だと思います。

ギリシャの哲人か誰かが「生涯で人は二度生まれる。一度目はこの世に誕生したとき。二度目は存在しようとするとき」といってました。

まさに、この二度目の生まれの苦しみというやつでしょう。

もう少し具体的にいきましょう。

最近、僕もようやくわかってきたことですが、どうも「人生は運転席にすわらないといけない」らしいのです。

それまでは阿呆のように口をあけて、誰かが用意したプランの上にエスカレーターみたいに乗っかってるだけで栄光の人生を歩めると思っていました。

でも、それは間違いだった。

言葉を変えると、だれかに乗っかるようなプランはことごとく上手くいきませんでした。そりゃそうです。人はみんな自分がかわいい。だから、本質的に「君のために心から動いてくれる人間は存在しない」からです。僕たちは、他人と、気がむいたときか利益が一致した場合にのみ手をむすぶことができるにすぎません。

僕は阿呆だから、そんなことに気づくのに時間がかかった。

もう一度書きます。

人生の運転席には君がのらなくてはいけない。

くれぐれも助手席や、いわんや後部座席でぼけっとしてるだけで目的地にたどりつけると考えてはいけない──らしいのです。どこかに到着はするでしょう。けれど、それは他人にとっての都合のいい場所でしかないのです。

ハンドルをにぎること。死ぬまで離さないこと。

それは全責任を負うことでもあります。いままで助手席に座ってるだけでどうにかなったからには──まわりに保護されていた──未知の恐怖ですよね。手も足もガクガクふるえます。首もくくりたくなるでしょう。

文字通り、生きるか死ぬか。目の前にはなにもない。仲間もいない。一寸先もみえない聞こえない感じられない──青い地獄のはじまりです。

しかし、こんなにスリリングなこともない。最近はそう感じてもいます。そう感じることができるようになってきました。どこにたどりつくかはわかりませんが──あるいは虚勢か──道のりを楽しむ余裕もできてきました。

最後にもう一度だけ書きます。本当に大事なことだと思うからです。この言葉は、僕が、ちんけな人生でつかみとった果実です。もし稚拙に思えるなら笑い飛ばしてください。そして君の道をかっ飛ばしてください。

人生の運転席には君がのらなくてはいけない。

さて、こんな感じで第一回は終わるとします。この文章自体も、どこにたどりつくのか僕自身わかっていません。

そして、いま、ふと思いました。本当のところ、僕が書きたいのは、ずっと前の、どこかに走りだしたい衝動を抱えて、それでもどこにもいけなかった自分にむけた手紙なのかもな、と。

青年は地獄を生きる①「人生の運転席には君がすわらないといけない」
青年は地獄を生きる②「その程度でバッドエンドのつもりか。君のストーリーは途中だろ。」
青年は地獄を生きる③「卑屈に逃げるな。君はそこから脱獄できるはずだ。」

マジックを愛してもマジックは愛してくれないかもしれないことについて 。

僕はかれこれ十年以上もマジシャンをしている。

つまり、十年以上も、マジックというものに人生の若く貴重なエネルギーをぶちこんできたわけだ。別に、それ自体後悔があるわけではない。わりと、この人生は気に入っているから。ちなみに来世は鴨になって、鴨川で、すいすいふらふらする予定だ。

そこで実に多くのものをみてきた。

もちろん誰だって、生きる上で、多くのものを目にするだろう。道頓堀を歩けばグリコの看板を目にするみたいに。僕の場合、多くのマジックに魅入られた人間をみてきた、というわけだ。

少年のころから、多くのマジシャンの人生を目にできたことは貴重な経験だったと思う。精神的金塊。マジックそのものとは関係なしに。なにか一つの世界に浸かっていなければ、なかなかそうもいかない。

そこで目にしてきたもの──感じてきたことは、実に、僕の人格形成にとけこんでいる。

一つはマジックに対する、ある種の不信感かもしれない。

もちろん嬉しいことばかりではなかった。むしろ、そうではないことの方が多い。いくつでもゴディバのアソートパックみたいに見繕って──ビターもスイートも──語ることはできるけれど、いちばん心のなかにあるのは「マジックを愛したからといって、マジックが愛してくれるわけではない」という想いだった。

僕は、多くの人がマジシャンをやめるのをみてきた。

僕なんかより圧倒的に才能にあふれた人もいた。上手い人もいた。カッコいい人もいた。面白い人もいた。頭のいい人もいた。でも、彼らは、いつしかマジシャンでなくなった。糸が切れた凧のようにどこかにいった──というのは嘘で、彼らがマジシャンをやめるときの表情はいまでも心にのこっている。

残された僕はなんなんだろうな──と思うときがある。ビールを飲んで夜道を歩いているときなんかに。

なぜなんだろう、と、少年の僕は思った。問うた。彼らは、みな、マジックを愛していたのに。おそらくは僕以上に。

そして若造ながら、そうした先達をみて「ああ、この道はたぶんまともにやっちゃダメなんだろうな」と感じもした。彼らが、どれだけマジックに心や人生や若さを捧げていたかをみてきたわけだから。そう考えざるをえなかった。

だから僕のマジシャンとしてのスタンスは「さらさらまともにやるつもりはねえ」である。今も昔も。あるいは、いつのころからか。

マジックを愛してもマジックは愛してくれないかもしれないらしいぞ。

さて、幼いながらにそう感じたわけだ。むなしいことに。そもそも愛したぶんだけ報われるわけではない、というのは、37497通りある愛の定義のうち、14番目に正しい定義でもある。

「マジックをどれだけ愛しているか?」と「マジシャンで生きていけるか?」は関係がない。

わお。

わざわざ言葉にする必要はないのかもしれない。

けれど、最近、目を輝かせてマジシャンをめざしている後輩もいるので、言葉にすることも大事かなと思った。人生のほとんどを捧げたものに報われない悲しみに対しては、やっぱり、なんらかの対策をしてほしいから。さけられるにこしたことはない。あらかじめ知れば用心もできる。

君が愛しているものは、いつか君を破滅に追いこむかも知れない。

そういうものだ。君が目にしている輝きの百倍くらいは、目にできなかった悲しみがうずまいていたはずだからね。それでも愛したものと生きていきたければ、対策をすることだ。対策だ。いまが春だからといって冬の用心をしなくていいわけじゃないんだ。いいね?

そういえば「ほどほどに愛しなさい。長続きする恋はそういうものだよ」とシェイクスピアがいってたな。

↓ワイのツイッター

「最近マジシャンになったんです」と口にしてはいけない。

大阪なんばにマジックバーをはじめてから、新人にあれこれ教えることが多くなった。

とはいえ基本的に「マジシャンは勝手に成長する」と考えているので、まあネタに口をだすことはない。ちょっとした言葉やふるまいについてという感じだ。

そんな中で、どの後輩も口にしてしまう(つまり僕は悪手だと思っている)セリフがある。

「最近、マジシャンになったところなんです」
「このお店に入って一月目なんです」
「マジックをはじめて半年です」
「ほんとは大学生です」

僕は「そんなこといわなくていいぜ」といつもアドバイスする。

ひょっとするとマジシャンになりたての人も同じ間違い(だと僕は思っている)をしてるかもしれない。なので文章にすることにした。

このセリフはなにがいけないのか?

観客の幻想をうばってしまうからだ。

ディズニーランドに入園した瞬間、アイスバケツチャレンジをくらうみたいに、ワクワクを興ざめさせてしまうのだ。

考えてもみてほしい。

例えば「そういえばマジックバーいったことないね。どんなマジシャンがいるんだろう?」と興味津々できた観客に「あ、あの実は先月からマジシャンになりました。ほんとは大学生なんです。がんばるんでよろしくお願いします」と発言するとどう思われるのかを。

がっかりするだろう。もっと堂々としといてくれよ、と。

もちろん正直なのは悪いことではない。だが良くもないのだ。

この世には「正直に口にするくらいならなにも言わない方がいい」という種類の優しさもあるのだ。嘘をつく必要はない。しかし、わざわざ本当のことをいう必要もないのだ。

まだ初心者に毛のはえたようなパフォーマーだけど、全力を尽くします、という謙虚な姿勢はいい。しかしその謙虚な姿勢は自分のなかに秘めるもので、他人につきつけるものではない。

さらにいえば初心者アピールは「少々の見苦しさは見逃してください」という言い訳を自分に用意していることにもなる。観客からすれば、しらんがなそんなんアンタのとこの事情やん、こっちに押しつけないでくれよ、というわけだ。

それは、まわりまわってパフォーマーの演技をやりにくくする。

観客のテンションをさげているわけだから。ハードルを下げるとはそういうことだ。人生というのは、どういうわけだか、弱い言葉を使うほど、自分を追いこむことになってしまうらしい。

いいかい?

わざわざ君の価値をさげるような言葉を吐くんじゃない。

口にしたくなる気持はわかる。つい初心者なんです──と見逃してほしくなるのは。でも、そんなのは舞台裏までだ。観客の前ではいっちゃいけない。

観客の前では、堂々とマジシャンを気取ってないといけないんだよ。

僕たちが選んだのは、そういう仕事なんだ。観客がみたいのは自信にみちあふれた君なんだからね。歯をくいしばれ。君ならできるさ。

↓ワイのツイッター

まだ観客のせいにしてるの?

・マジックは嫌いだ宣言
・勝手に道具をさわる
・オチを先にいう
・謎に不機嫌
・指示に従ってくれない
・触るなといったものを触る
・「あ、それ知ってる」「見破ってやる」「マジックはインチキだ!」
・自分がおもしろい人間だと主張したがる
・盗んだバイクで走り出す

マジシャンとしてパフォーマンスをしていると、なかなかハードパンチャーな観客にでくわします。

特にクロースアップスタイルのマジックは、それこそ〝目の前30センチ〟で魔法をおみせする芸能です。めっちゃ至近距離です。観客とのやりとりが濃厚。なおさら困らされた経験のある人は多いでしょう。

実際問題、年下のマジシャンから「観客がパフォーマンスの邪魔をしてくるときの対処法はありますか?」と質問を受けることもあります。

僕も「困った観客はこういうセリフでかわすんだよ」といったアドバイスをしていました。いわゆる冗談や──客あしらいの方法です。

しかしよく考えると、最近、僕自身はそうした悩みがまったくなかったりします。みんないいひと。人類みな友達。ウィアーザワールド。

それについて考えたことがありました。その結果「セリフや客あしらいを学べばOK」という話でもないんじゃねえかな、とも思うようになってきました。

理由は二つです。

①そもそも演者が〝邪魔したくない世界観〟を提示できていれば観客は邪魔しない。
②そうした場所で演じざるをえない演者のブランディングミス。

これを個別にみていきます。

①そもそも演者が〝邪魔したくない世界観〟を提示できていれば観客は邪魔しない。

なにごとも相手の立場になって考える必要があります。

マジシャンにとっては「ハードパンチャーな観客」であっても、あちらの事情があるはずです。そう考えると観客が迷惑行為をする大きな理由は「退屈だから」「ふざけた方がオモロイから」という感じでしょう。

すなわち、これは「マジシャンが演技に没頭させきれていないから」と言い換えられます。邪魔できないような空気をかもしだせていない。ツッコミどころを残している。という感じです。世界観不足。

というなり「もっとマジック練習します!」という後輩マジシャンがいました。おちつけ。そうじゃねえ。

パフォーマンスの説得力は──世界観は──細部にやどります。むしろマジック意外の話だと思うのです。

・おどおどしていた
・どや顔で魔法を語ってるのに髪型がボサボサだった
・スーツが黄ばんでいた
・レディに目をあわせることができない
・観客の社会一般レベルのジョークに気の利いた返しをできなかった
・不潔
・時計が安っぽい
・道具をいれる百均ケースがみえた
・爪がきたない
・マジックがはじまる前にコミュ障な感じがでてた
・実は下着泥棒だ

そんな感じです。こうした細部をよせあつめて「このマジシャンを名乗る人物に自分の貴重な時間をあずけてもいいのか?」と観客はおしはかるわけです。ザ・ジャッジ。この判決で否をくらうと──というわけです。

たしかに気の利いたフレーズを仕込んでおけば、その場はかわせるでしょう。しかし本質的には、その前の段階で、気をつけておくべきことがあるのかもしれません。

雨漏りをしたときに天井だけを治して安心するのでなく(また天気次第で再発します)そもそもの配管部分を修理する必要があるというわけです──気づきにくい裏の細部を。

邪魔したくない世界観はあるか?

②そうした場所で演じざるをえない演者のブランディングミス。

場所ごとに観客の属性があります。

キレイゴトでもディスでもなんでもなく、そういうものです。アルコールにしても居酒屋は「大量に飲む楽しさ」の雰囲気があります。カッコいいバーは「しっとり飲む楽しさ」の雰囲気があります。当然、店の空気や、店員に対する態度もかわります。

入場無料の商店街のお祭りと、会費10000円の企業パーティでも、来客の心構えはちがうでしょう。心構えどころか年齢層やあらゆるものが変わります。例えば後者に子供の姿はほとんどみえないでしょう。

他にも「観客が積極的にマジックを楽しもうとしている場所か?」という指針もあります。

例えばマジックバーや、マジシャンを呼べると告知しているレストラン、自主公演のショウなどであれば、観客は、そのつもりでやってきてくれます。反対に、お祭り、地方のイベント、別の企画の会場ブースなどでは、マジックをみることなど頭にない人々をつかまえて演じることになります。どちらの方が演じやすいかはハッキリしております。

念のためにいっておくと、これは「違い(におけるマジックのしやすさ)」の話をしているのであって「善し悪し」の話ではありません。世の中はマジックを演じるために作られていません。場所ごとに差異があります。

そして、これが大事なのですが「どこで演じるかも含めてマジシャンの自由」なのです。

もちろんギャラや生活費との相談もあるでしょう。しかし仕事のとりかたを工夫することはできます。というより工夫できないと、しんどい人生になるのはなんでもそうでしょう。マジシャンであることが、ビジネスを考えないでいい理由にはなりません。マジシャンは生き方の前に職業なのですから。

そしてマジシャンの仕事には「演じたい・演じやすい場所で演じる」ための工夫も含まれます。

ブランディングとマーケティングです。フリーランスという生き方をする以上、必須科目みたいなものです。カードをシャッフルするだけじゃ生きていけないのが辛いところ。しかし真実です。

あえてキツい言い方をすると、もしパフォーマーが観客に苦しめられているのなら、それは一周まわって「そこで演じるように自分をデザインしている自分の責任かも」というわけです。

もちろん、それが全てではないでしょう。僕にシャイニングウィザードをかましたい気持もわかります。しかし「他人は変えられないが、自分は変えられる」という金言を考えるに、そう考えて行動するのがお得なのです。マジシャンとして生きるなら。

そこで演じると決めているのは誰だろう?

以上、二点です。観客のせいにしてるより、自分のせいにする方が状況は変わるかもしれないというお話でした。

あ、でも、たまにマジでやばい人はいるから。そんときは君は悪くない。泣くな。泣いてもいいけど戦え。

港町の喫茶店で潮風のように一瞬だけ感じたこと。

「めちゃくちゃレトロな町を散策したいんだけど」

車好きの友人にたずねると、淡路島のある町を教えてくれた。

一年半前の夏の日、その港町におりたった。

車のドアをあけると、ぬるい潮の匂いがした。ほとんど民家で、宿泊施設や食事場所は数えるくらいだった。ホテルは、入室早々、空調がガタゴトと音を立てて作動しなくなったので、制服に汗じみのついた受付の女性を説得して部屋を変えてもらった。それでも、なにも考えずに町をふらふらするのは楽しかった。

その町、唯一の〝繁華街〟はさびれた商店街だった。

観光客にあわせて作ったカフェや土産物屋。郵便局。地元民が野菜や魚を買うための商店。何年も前にテレビに取材されたことを誇らしげにかかげる和菓子屋。一軒だけ違和感を放つコンビニ。そして、いくつか小道をまがったところに古びた喫茶店があった。

店に入ると、薄暗かった。窓の外の夏の光がそう感じさせた。

内装は西洋風だった。壁や椅子や机は木製で、アールヌーヴォー調に植物模様をほってあった。珈琲が貴重だったころに、海外に対する憧れをこめてデザインしたという感じだった。

店の奥から、背中の曲がった、70歳をとうに過ぎたような女性がやってきた。

店の一切をのそのそと彼女がこなしているようだった。僕は珈琲を頼んだ。彼女と同世代ほどの男性客は──たった1人の先客は──あくびをして新聞紙をたたむと、テーブルに小銭をおいて出ていった。

僕は珈琲を飲んだ。壁の彫りものをながめた。一面に木をあてがって、なにか西洋の神話をなぞらえるように、鎧を着た勇者や女神のふるまいを彫りこんでいた。その顔立ちは西洋人にもみえるし、日本人のようにもみえた。少なくとも作者は日本人だと思った。

珈琲が運ばれてきた。僕は砂糖とミルクを入れた。くすんだガラス製の照明をみあげながら飲んだ。そのとき直感があった。

ああ、この古びた場所も若いときがあったのだ、という事実だった。

店員の女性は、この町いちばんの美女だったかもしれない。彼女には夫がいたのかもしれない。二人で店を営んで、この内装や、この珈琲が、この町の流行の最先端だった時代もあったかもしれない。そんなイメージが湧きおこった。

僕は会計をすませた。外に出てふりかえると、あいかわらず古めかしい佇まいだった。もうこの店にくることはないだろうなと思った。

マジシャンの大会をみて「賞金を出せばいいのに」と思った。


先日、マジシャンの大会にいってきました。

地方大会みたいな感じです。もちろん出場したのではありません。というより、僕は、過去に、その先の全国大会にて審査員特別賞(三位)をもらったので勝ち逃げを決めこんでいるのです。僕自身、忘れそうなのでここに書いておきます。

さて、僕がやってるマジックバーの後輩が出場するので、のこのこ見物にいきました。

出場者は15名ほどでした。

マジシャンの大会ってすごいですよね。5分〜10分の制限時間で、観客と、審査員(プロマジシャン)の前で披露するわけです。採点表にのっとって点数をつけられます。

もちろん一人一人の批評をするつもりはありません。荒削りな部分も多かったですが、まあ、それが大会の趣旨(とにかくチャレンジをする場所)だから、そういうものかなという感じでした。

ちなみに一人、個人のキャラクターで、めっちゃウケていたマジシャンがいました。

狩野英孝みたいな感じで。彼の「意図せざるウケ」の評価はどうなるのだろうと気になりましたが、ある審査員が「再現性がないから」と減点していたのが興味ぶかかったです。なるほど、と。

どんな分野でもそうですが「コンテスト」というやつは曲者です。

いつもの観客にウケるものをみせても高評価になりません。チャレンジしていないから。あくまで「新しい風」を目の肥えた審査員に感じさせる必要があります。みせかけだろうが、なんだろうが。

この「新しさ」も一筋縄ではいきません。

ソフトでなくハードの新しさが必要です。いままでの延長線上でなく、土台から、新しいものを期待されているのです。いまさらプレステ4の新しいゲームを作るのでなく、東京ゲームショウに出展するような「なにがおこるんだ…?」とマジで新しいものを作るのが理想です。

明日のスタンダードを担う(かもしれない)ものを実験、発表する場所、という感じです。

──と、これは一般論ですが、今回のコンテストに限っていえば、個人的には「時間をかけたものが入賞する」状況だったのかなと感じました。

台詞をおぼえきっていない、一度でも知人にみせていたらツッコまれていたであろう箇所があった、致命的なところで種がみえている、論理的に台詞のつじつまがあっていない、みたいな感じです。けっこう目立ちました。

もちろん、後のフィードバックで(これも楽しかったです)その一つ一つを鷹の目をもった審査員たちが砲撃していました。十字砲火。さすがの感でした。

これらは細かくいえば「技術や構成に難あり」ということなのかもしれません。

しかし個人的には、みんな「時間をかけていない(やるべき努力をしていない)」だけなのかなと感じました。もっと引きで、抽象的にとりあつかうべき問題なのかなという印象です。

これがM1グランプリであれば──違うわけですけど──台本をおぼえずに出場するなんてありえません。100%台本をおぼえて、コンマの間をこだわって、それで生きるか死ぬかという世界なわけです。

では、M1と、マジシャンの大会はなにが違うのだろう?
なぜ、台本をおぼえないまま出場する人がいるのだろう?

それは「賞金がないから」だと思いました。

人間は、目の前に美味しいものがぶらさがっていればなんだってします。いわれなくても努力します。細部にも病的なこだわりをみせるでしょう。

それが、お金にならないのでは、やっぱり目先のバイトや、学力テストや、気になる子とのデートを優先させてしまうというものです。これは当たり前の話です。

ゆえに「競争原理」が働いていないのです。

もちろん現在もなにも手に入らないわけではありません。入賞すると、より上位の大会に進めます。マジックの世界で名前を売ることができます。しかしM1のように現金にはなりません。あくる日から人生が様変わりするようなこともおこらない──と誰もが知ってしまっている───わけです。

現在の形では、賞金がない以上、あくまで「マジックが好きだから」という純粋な思いを起爆剤にするくらいしかありません。マジック好きな学生たちが、ほとんどの出場枠をしめて、その道で生きるプロマジシャンたちが出場しないのがなによりの証拠でしょう。生きるモチベーションにはならないからです。

その「マジックが好きだから」というモチベーションは現実的な旨味がありません。だから、つい他の誘惑に負けてしまうというわけです。

そんな報酬目当てのやつなんかいらん、真のマジシャンのみ参られよ、という意見もあるでしょう。しかし、それでは一部の人間しか近よることができないものになります。得られるものがあるなら努力できるという人間本来の在り方に反しているからです。

以上より、僕は「賞金を出せばいいのに」と思いました。

もしマジックのレベルを上げたいと考える人がいるのなら──残念ながら僕はそうではありませんが──シンプルに賞金を用意するだけで、おもしろいことがおこるのではという感じです。少なくとも、もっと第一線のマジシャンたちも本気でコンテストに突撃してくることでしょう。競争原理バンザイ。

これがコンテストにおぼえた違和感の正体かなと思いました。「なぜ、もっと練習しなかったんだ?」と若手を問い詰めることはできます。けれど、そういう気分になれないのも当たり前の話かなというわけです。というより、その気持はすごくわかる。僕は攻めることができない。

目の前のニンジン。嬉しいくらいの賞金。人生が変わるという確信。これが少なくとも技術論を指摘する以上に、後輩マジシャンたちのスキルアップをうながす方法になるかもしれません。そもそものモチベーション改革というわけです。

もちろんコンテスト側に賞金を用意したくてもできない事情もあるかと思います。ただでさえ主催側は負担を強いられているというのですから。ならば、そもそもの設計をみなおすことも大事かもしれません。逆にいえばマネタイズさえすれば解決するわけです。その話は長くなるので置いておきますが。

ちなみに、僕のバーから出場した子は入賞にいたりませんでした。

「くやしいです」と、大会後、彼からLINEがありました。

がんばれよ。まわりと努力のレベルをあわせる必要はないぜ。

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