マジックを愛してもマジックは愛してくれないかもしれないことについて 。

僕はかれこれ十年以上もマジシャンをしている。

つまり、十年以上も、マジックというものに人生の若く貴重なエネルギーをぶちこんできたわけだ。別に、それ自体後悔があるわけではない。わりと、この人生は気に入っているから。ちなみに来世は鴨になって、鴨川で、すいすいふらふらする予定だ。

そこで実に多くのものをみてきた。

もちろん誰だって、生きる上で、多くのものを目にするだろう。道頓堀を歩けばグリコの看板を目にするみたいに。僕の場合、多くのマジックに魅入られた人間をみてきた、というわけだ。

少年のころから、多くのマジシャンの人生を目にできたことは貴重な経験だったと思う。精神的金塊。マジックそのものとは関係なしに。なにか一つの世界に浸かっていなければ、なかなかそうもいかない。

そこで目にしてきたもの──感じてきたことは、実に、僕の人格形成にとけこんでいる。

一つはマジックに対する、ある種の不信感かもしれない。

もちろん嬉しいことばかりではなかった。むしろ、そうではないことの方が多い。いくつでもゴディバのアソートパックみたいに見繕って──ビターもスイートも──語ることはできるけれど、いちばん心のなかにあるのは「マジックを愛したからといって、マジックが愛してくれるわけではない」という想いだった。

僕は、多くの人がマジシャンをやめるのをみてきた。

僕なんかより圧倒的に才能にあふれた人もいた。上手い人もいた。カッコいい人もいた。面白い人もいた。頭のいい人もいた。でも、彼らは、いつしかマジシャンでなくなった。糸が切れた凧のようにどこかにいった──というのは嘘で、彼らがマジシャンをやめるときの表情はいまでも心にのこっている。

残された僕はなんなんだろうな──と思うときがある。ビールを飲んで夜道を歩いているときなんかに。

なぜなんだろう、と、少年の僕は思った。問うた。彼らは、みな、マジックを愛していたのに。おそらくは僕以上に。

そして若造ながら、そうした先達をみて「ああ、この道はたぶんまともにやっちゃダメなんだろうな」と感じもした。彼らが、どれだけマジックに心や人生や若さを捧げていたかをみてきたわけだから。そう考えざるをえなかった。

だから僕のマジシャンとしてのスタンスは「さらさらまともにやるつもりはねえ」である。今も昔も。あるいは、いつのころからか。

マジックを愛してもマジックは愛してくれないかもしれないらしいぞ。

さて、幼いながらにそう感じたわけだ。むなしいことに。そもそも愛したぶんだけ報われるわけではない、というのは、37497通りある愛の定義のうち、14番目に正しい定義でもある。

「マジックをどれだけ愛しているか?」と「マジシャンで生きていけるか?」は関係がない。

わお。

わざわざ言葉にする必要はないのかもしれない。

けれど、最近、目を輝かせてマジシャンをめざしている後輩もいるので、言葉にすることも大事かなと思った。人生のほとんどを捧げたものに報われない悲しみに対しては、やっぱり、なんらかの対策をしてほしいから。さけられるにこしたことはない。あらかじめ知れば用心もできる。

君が愛しているものは、いつか君を破滅に追いこむかも知れない。

そういうものだ。君が目にしている輝きの百倍くらいは、目にできなかった悲しみがうずまいていたはずだからね。それでも愛したものと生きていきたければ、対策をすることだ。対策だ。いまが春だからといって冬の用心をしなくていいわけじゃないんだ。いいね?

そういえば「ほどほどに愛しなさい。長続きする恋はそういうものだよ」とシェイクスピアがいってたな。

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「最近マジシャンになったんです」と口にしてはいけない。

大阪なんばにマジックバーをはじめてから、新人にあれこれ教えることが多くなった。

とはいえ基本的に「マジシャンは勝手に成長する」と考えているので、まあネタに口をだすことはない。ちょっとした言葉やふるまいについてという感じだ。

そんな中で、どの後輩も口にしてしまう(つまり僕は悪手だと思っている)セリフがある。

「最近、マジシャンになったところなんです」
「このお店に入って一月目なんです」
「マジックをはじめて半年です」
「ほんとは大学生です」

僕は「そんなこといわなくていいぜ」といつもアドバイスする。

ひょっとするとマジシャンになりたての人も同じ間違い(だと僕は思っている)をしてるかもしれない。なので文章にすることにした。

このセリフはなにがいけないのか?

観客の幻想をうばってしまうからだ。

ディズニーランドに入園した瞬間、アイスバケツチャレンジをくらうみたいに、ワクワクを興ざめさせてしまうのだ。

考えてもみてほしい。

例えば「そういえばマジックバーいったことないね。どんなマジシャンがいるんだろう?」と興味津々できた観客に「あ、あの実は先月からマジシャンになりました。ほんとは大学生なんです。がんばるんでよろしくお願いします」と発言するとどう思われるのかを。

がっかりするだろう。もっと堂々としといてくれよ、と。

もちろん正直なのは悪いことではない。だが良くもないのだ。

この世には「正直に口にするくらいならなにも言わない方がいい」という種類の優しさもあるのだ。嘘をつく必要はない。しかし、わざわざ本当のことをいう必要もないのだ。

まだ初心者に毛のはえたようなパフォーマーだけど、全力を尽くします、という謙虚な姿勢はいい。しかしその謙虚な姿勢は自分のなかに秘めるもので、他人につきつけるものではない。

さらにいえば初心者アピールは「少々の見苦しさは見逃してください」という言い訳を自分に用意していることにもなる。観客からすれば、しらんがなそんなんアンタのとこの事情やん、こっちに押しつけないでくれよ、というわけだ。

それは、まわりまわってパフォーマーの演技をやりにくくする。

観客のテンションをさげているわけだから。ハードルを下げるとはそういうことだ。人生というのは、どういうわけだか、弱い言葉を使うほど、自分を追いこむことになってしまうらしい。

いいかい?

わざわざ君の価値をさげるような言葉を吐くんじゃない。

口にしたくなる気持はわかる。つい初心者なんです──と見逃してほしくなるのは。でも、そんなのは舞台裏までだ。観客の前ではいっちゃいけない。

観客の前では、堂々とマジシャンを気取ってないといけないんだよ。

僕たちが選んだのは、そういう仕事なんだ。観客がみたいのは自信にみちあふれた君なんだからね。歯をくいしばれ。君ならできるさ。

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まだ観客のせいにしてるの?

・マジックは嫌いだ宣言
・勝手に道具をさわる
・オチを先にいう
・謎に不機嫌
・指示に従ってくれない
・触るなといったものを触る
・「あ、それ知ってる」「見破ってやる」「マジックはインチキだ!」
・自分がおもしろい人間だと主張したがる
・盗んだバイクで走り出す

マジシャンとしてパフォーマンスをしていると、なかなかハードパンチャーな観客にでくわします。

特にクロースアップスタイルのマジックは、それこそ〝目の前30センチ〟で魔法をおみせする芸能です。めっちゃ至近距離です。観客とのやりとりが濃厚。なおさら困らされた経験のある人は多いでしょう。

実際問題、年下のマジシャンから「観客がパフォーマンスの邪魔をしてくるときの対処法はありますか?」と質問を受けることもあります。

僕も「困った観客はこういうセリフでかわすんだよ」といったアドバイスをしていました。いわゆる冗談や──客あしらいの方法です。

しかしよく考えると、最近、僕自身はそうした悩みがまったくなかったりします。みんないいひと。人類みな友達。ウィアーザワールド。

それについて考えたことがありました。その結果「セリフや客あしらいを学べばOK」という話でもないんじゃねえかな、とも思うようになってきました。

理由は二つです。

①そもそも演者が〝邪魔したくない世界観〟を提示できていれば観客は邪魔しない。
②そうした場所で演じざるをえない演者のブランディングミス。

これを個別にみていきます。

①そもそも演者が〝邪魔したくない世界観〟を提示できていれば観客は邪魔しない。

なにごとも相手の立場になって考える必要があります。

マジシャンにとっては「ハードパンチャーな観客」であっても、あちらの事情があるはずです。そう考えると観客が迷惑行為をする大きな理由は「退屈だから」「ふざけた方がオモロイから」という感じでしょう。

すなわち、これは「マジシャンが演技に没頭させきれていないから」と言い換えられます。邪魔できないような空気をかもしだせていない。ツッコミどころを残している。という感じです。世界観不足。

というなり「もっとマジック練習します!」という後輩マジシャンがいました。おちつけ。そうじゃねえ。

パフォーマンスの説得力は──世界観は──細部にやどります。むしろマジック意外の話だと思うのです。

・おどおどしていた
・どや顔で魔法を語ってるのに髪型がボサボサだった
・スーツが黄ばんでいた
・レディに目をあわせることができない
・観客の社会一般レベルのジョークに気の利いた返しをできなかった
・不潔
・時計が安っぽい
・道具をいれる百均ケースがみえた
・爪がきたない
・マジックがはじまる前にコミュ障な感じがでてた
・実は下着泥棒だ

そんな感じです。こうした細部をよせあつめて「このマジシャンを名乗る人物に自分の貴重な時間をあずけてもいいのか?」と観客はおしはかるわけです。ザ・ジャッジ。この判決で否をくらうと──というわけです。

たしかに気の利いたフレーズを仕込んでおけば、その場はかわせるでしょう。しかし本質的には、その前の段階で、気をつけておくべきことがあるのかもしれません。

雨漏りをしたときに天井だけを治して安心するのでなく(また天気次第で再発します)そもそもの配管部分を修理する必要があるというわけです──気づきにくい裏の細部を。

邪魔したくない世界観はあるか?

②そうした場所で演じざるをえない演者のブランディングミス。

場所ごとに観客の属性があります。

キレイゴトでもディスでもなんでもなく、そういうものです。アルコールにしても居酒屋は「大量に飲む楽しさ」の雰囲気があります。カッコいいバーは「しっとり飲む楽しさ」の雰囲気があります。当然、店の空気や、店員に対する態度もかわります。

入場無料の商店街のお祭りと、会費10000円の企業パーティでも、来客の心構えはちがうでしょう。心構えどころか年齢層やあらゆるものが変わります。例えば後者に子供の姿はほとんどみえないでしょう。

他にも「観客が積極的にマジックを楽しもうとしている場所か?」という指針もあります。

例えばマジックバーや、マジシャンを呼べると告知しているレストラン、自主公演のショウなどであれば、観客は、そのつもりでやってきてくれます。反対に、お祭り、地方のイベント、別の企画の会場ブースなどでは、マジックをみることなど頭にない人々をつかまえて演じることになります。どちらの方が演じやすいかはハッキリしております。

念のためにいっておくと、これは「違い(におけるマジックのしやすさ)」の話をしているのであって「善し悪し」の話ではありません。世の中はマジックを演じるために作られていません。場所ごとに差異があります。

そして、これが大事なのですが「どこで演じるかも含めてマジシャンの自由」なのです。

もちろんギャラや生活費との相談もあるでしょう。しかし仕事のとりかたを工夫することはできます。というより工夫できないと、しんどい人生になるのはなんでもそうでしょう。マジシャンであることが、ビジネスを考えないでいい理由にはなりません。マジシャンは生き方の前に職業なのですから。

そしてマジシャンの仕事には「演じたい・演じやすい場所で演じる」ための工夫も含まれます。

ブランディングとマーケティングです。フリーランスという生き方をする以上、必須科目みたいなものです。カードをシャッフルするだけじゃ生きていけないのが辛いところ。しかし真実です。

あえてキツい言い方をすると、もしパフォーマーが観客に苦しめられているのなら、それは一周まわって「そこで演じるように自分をデザインしている自分の責任かも」というわけです。

もちろん、それが全てではないでしょう。僕にシャイニングウィザードをかましたい気持もわかります。しかし「他人は変えられないが、自分は変えられる」という金言を考えるに、そう考えて行動するのがお得なのです。マジシャンとして生きるなら。

そこで演じると決めているのは誰だろう?

以上、二点です。観客のせいにしてるより、自分のせいにする方が状況は変わるかもしれないというお話でした。

あ、でも、たまにマジでやばい人はいるから。そんときは君は悪くない。泣くな。泣いてもいいけど戦え。

港町の喫茶店で潮風のように一瞬だけ感じたこと。

「めちゃくちゃレトロな町を散策したいんだけど」

車好きの友人にたずねると、淡路島のある町を教えてくれた。

一年半前の夏の日、その港町におりたった。

車のドアをあけると、ぬるい潮の匂いがした。ほとんど民家で、宿泊施設や食事場所は数えるくらいだった。ホテルは、入室早々、空調がガタゴトと音を立てて作動しなくなったので、制服に汗じみのついた受付の女性を説得して部屋を変えてもらった。それでも、なにも考えずに町をふらふらするのは楽しかった。

その町、唯一の〝繁華街〟はさびれた商店街だった。

観光客にあわせて作ったカフェや土産物屋。郵便局。地元民が野菜や魚を買うための商店。何年も前にテレビに取材されたことを誇らしげにかかげる和菓子屋。一軒だけ違和感を放つコンビニ。そして、いくつか小道をまがったところに古びた喫茶店があった。

店に入ると、薄暗かった。窓の外の夏の光がそう感じさせた。

内装は西洋風だった。壁や椅子や机は木製で、アールヌーヴォー調に植物模様をほってあった。珈琲が貴重だったころに、海外に対する憧れをこめてデザインしたという感じだった。

店の奥から、背中の曲がった、70歳をとうに過ぎたような女性がやってきた。

店の一切をのそのそと彼女がこなしているようだった。僕は珈琲を頼んだ。彼女と同世代ほどの男性客は──たった1人の先客は──あくびをして新聞紙をたたむと、テーブルに小銭をおいて出ていった。

僕は珈琲を飲んだ。壁の彫りものをながめた。一面に木をあてがって、なにか西洋の神話をなぞらえるように、鎧を着た勇者や女神のふるまいを彫りこんでいた。その顔立ちは西洋人にもみえるし、日本人のようにもみえた。少なくとも作者は日本人だと思った。

珈琲が運ばれてきた。僕は砂糖とミルクを入れた。くすんだガラス製の照明をみあげながら飲んだ。そのとき直感があった。

ああ、この古びた場所も若いときがあったのだ、という事実だった。

店員の女性は、この町いちばんの美女だったかもしれない。彼女には夫がいたのかもしれない。二人で店を営んで、この内装や、この珈琲が、この町の流行の最先端だった時代もあったかもしれない。そんなイメージが湧きおこった。

僕は会計をすませた。外に出てふりかえると、あいかわらず古めかしい佇まいだった。もうこの店にくることはないだろうなと思った。

マジシャンの大会をみて「賞金を出せばいいのに」と思った。


先日、マジシャンの大会にいってきました。

地方大会みたいな感じです。もちろん出場したのではありません。というより、僕は、過去に、その先の全国大会にて審査員特別賞(三位)をもらったので勝ち逃げを決めこんでいるのです。僕自身、忘れそうなのでここに書いておきます。

さて、僕がやってるマジックバーの後輩が出場するので、のこのこ見物にいきました。

出場者は15名ほどでした。

マジシャンの大会ってすごいですよね。5分〜10分の制限時間で、観客と、審査員(プロマジシャン)の前で披露するわけです。採点表にのっとって点数をつけられます。

もちろん一人一人の批評をするつもりはありません。荒削りな部分も多かったですが、まあ、それが大会の趣旨(とにかくチャレンジをする場所)だから、そういうものかなという感じでした。

ちなみに一人、個人のキャラクターで、めっちゃウケていたマジシャンがいました。

狩野英孝みたいな感じで。彼の「意図せざるウケ」の評価はどうなるのだろうと気になりましたが、ある審査員が「再現性がないから」と減点していたのが興味ぶかかったです。なるほど、と。

どんな分野でもそうですが「コンテスト」というやつは曲者です。

いつもの観客にウケるものをみせても高評価になりません。チャレンジしていないから。あくまで「新しい風」を目の肥えた審査員に感じさせる必要があります。みせかけだろうが、なんだろうが。

この「新しさ」も一筋縄ではいきません。

ソフトでなくハードの新しさが必要です。いままでの延長線上でなく、土台から、新しいものを期待されているのです。いまさらプレステ4の新しいゲームを作るのでなく、東京ゲームショウに出展するような「なにがおこるんだ…?」とマジで新しいものを作るのが理想です。

明日のスタンダードを担う(かもしれない)ものを実験、発表する場所、という感じです。

──と、これは一般論ですが、今回のコンテストに限っていえば、個人的には「時間をかけたものが入賞する」状況だったのかなと感じました。

台詞をおぼえきっていない、一度でも知人にみせていたらツッコまれていたであろう箇所があった、致命的なところで種がみえている、論理的に台詞のつじつまがあっていない、みたいな感じです。けっこう目立ちました。

もちろん、後のフィードバックで(これも楽しかったです)その一つ一つを鷹の目をもった審査員たちが砲撃していました。十字砲火。さすがの感でした。

これらは細かくいえば「技術や構成に難あり」ということなのかもしれません。

しかし個人的には、みんな「時間をかけていない(やるべき努力をしていない)」だけなのかなと感じました。もっと引きで、抽象的にとりあつかうべき問題なのかなという印象です。

これがM1グランプリであれば──違うわけですけど──台本をおぼえずに出場するなんてありえません。100%台本をおぼえて、コンマの間をこだわって、それで生きるか死ぬかという世界なわけです。

では、M1と、マジシャンの大会はなにが違うのだろう?
なぜ、台本をおぼえないまま出場する人がいるのだろう?

それは「賞金がないから」だと思いました。

人間は、目の前に美味しいものがぶらさがっていればなんだってします。いわれなくても努力します。細部にも病的なこだわりをみせるでしょう。

それが、お金にならないのでは、やっぱり目先のバイトや、学力テストや、気になる子とのデートを優先させてしまうというものです。これは当たり前の話です。

ゆえに「競争原理」が働いていないのです。

もちろん現在もなにも手に入らないわけではありません。入賞すると、より上位の大会に進めます。マジックの世界で名前を売ることができます。しかしM1のように現金にはなりません。あくる日から人生が様変わりするようなこともおこらない──と誰もが知ってしまっている───わけです。

現在の形では、賞金がない以上、あくまで「マジックが好きだから」という純粋な思いを起爆剤にするくらいしかありません。マジック好きな学生たちが、ほとんどの出場枠をしめて、その道で生きるプロマジシャンたちが出場しないのがなによりの証拠でしょう。生きるモチベーションにはならないからです。

その「マジックが好きだから」というモチベーションは現実的な旨味がありません。だから、つい他の誘惑に負けてしまうというわけです。

そんな報酬目当てのやつなんかいらん、真のマジシャンのみ参られよ、という意見もあるでしょう。しかし、それでは一部の人間しか近よることができないものになります。得られるものがあるなら努力できるという人間本来の在り方に反しているからです。

以上より、僕は「賞金を出せばいいのに」と思いました。

もしマジックのレベルを上げたいと考える人がいるのなら──残念ながら僕はそうではありませんが──シンプルに賞金を用意するだけで、おもしろいことがおこるのではという感じです。少なくとも、もっと第一線のマジシャンたちも本気でコンテストに突撃してくることでしょう。競争原理バンザイ。

これがコンテストにおぼえた違和感の正体かなと思いました。「なぜ、もっと練習しなかったんだ?」と若手を問い詰めることはできます。けれど、そういう気分になれないのも当たり前の話かなというわけです。というより、その気持はすごくわかる。僕は攻めることができない。

目の前のニンジン。嬉しいくらいの賞金。人生が変わるという確信。これが少なくとも技術論を指摘する以上に、後輩マジシャンたちのスキルアップをうながす方法になるかもしれません。そもそものモチベーション改革というわけです。

もちろんコンテスト側に賞金を用意したくてもできない事情もあるかと思います。ただでさえ主催側は負担を強いられているというのですから。ならば、そもそもの設計をみなおすことも大事かもしれません。逆にいえばマネタイズさえすれば解決するわけです。その話は長くなるので置いておきますが。

ちなみに、僕のバーから出場した子は入賞にいたりませんでした。

「くやしいです」と、大会後、彼からLINEがありました。

がんばれよ。まわりと努力のレベルをあわせる必要はないぜ。

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とりあえず「毎日4時間を1年間」できないなら諦めたら?

最近、年下の子と話すことが増えました。

なにごとかを成し遂げたいんだけど、どうしたらいいかわからない。わかってるんだけど、どうにも突き進めない──という感じです。

いつもなにかをいってあげたくなる。もちろん、僕が、なにか成し遂げた人間というわけではありません。数年だけ先に生まれたので、そのぶんだけ知っていることがある、というだけです。

彼らは「やりたいと思ってることがあるんですけど…」と話してくれます。

そのたびに僕のする話があります。

「毎日4時間、1年続けられるならやるべきだし、できそうもないなら挑戦しない方がいい」

というものです。

これはヤバイ話でもなんでもありません。よく考えると普通の話なのです。

よく言われるものに「一万時間の法則」があります。

どんな分野であれ、一万時間努力すれば、それで食っていけるランクになれる。という法則です。事実、モーツアルトやビートルズも一万時間練習したあたりでバズったらしいです。

一万時間というと「毎日3時間を9年間」「毎日7時間を4年間」というイメージです。

なにも誰も彼も一万時間やらないとプロ失格だ、生きていけない、というわけではありません。実際のところ、3000〜5000時間でどうにかやっていけるレベルになると思います。ただ、それくらいのボリューム感は絶対に必要です。

生まれつき練習せずに、すさまじい成果をのこせることなんてそうはありません。なぜなら、なにかで生きるとは、最高レベルのポテンシャルをもった猛者どもが、人生オールインしてる場所に突撃するということですから。3000~5000時間は最低限必要です。マジで。

そうです。なにかで生きていく(くらいのスキルを身につける)って、結局、どれだけ時間をかけて努力したかの話なのですね。必要な時間をみつもって「毎日どれくらいやればいつ達成するだろう?」と考えればいいわけです。

それに対して僕の提案した「毎日4時間を1年間」は「2660時間」です。

一万時間への、はじめの一步くらいの感じです。富士山でいうと二合目です。しらんけど。逆にいうと、それくらいできないと、それで生きていけるわけがないのです。

そして途中で投げ出すくらいなら、マジでやめたほうがいい。

費やした時間が無駄になるから。

少年ジャンプでは、主人公が努力するシーンはあっというまに飛ばされます。漫画的につまらないから。ゆえに、あっというまにシーンを終えて主人公たちは大冒険ばっかしてる印象を受けます。

しかし大事なのは、すっとばした「つまらない修行時代」にあるのですね。

つい何者かになった自分を想像して、ぴゅんすか到達したくなり気持はわかります。しかし、そのためには阿呆のような努力が必要なのです。これは人生の黄金ルールです。

これはガチです。信じてください。世のなかの君が憧れるような人間はみんなそれくらいやってるわけです。むしろ、そこからスタートです。世の中って、何千時間ホルダーが殴りあう場所みたいなとこがありますから。

「毎日4時間、1年続けられるならやるべきだし、できそうもないなら挑戦しない方がいい」

あなたの人生は貴重なものです。みずみずしいエネルギーを浪費するのは悲劇です。深刻に悩むのでなく、真剣に考えてください。健闘を祈ります。

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愛って恋2.0なんじゃない?

気まぐれに野球選手が庭でバットをすぶりしたくなるような気分のときにツイッターでエッセイのお題を募集することがある。

今回は「軽いのにしてくれよ」と注文した。朝から喫茶店にいきっぱなしの頭を休めたかったからだ。

恋。

恋。

わお。

どう考えてもヘビィじゃないか。人生の一大イベントじゃないか。

もっと「スイカ」とか「たぬき」とか「キャラメルポップコーン」とかを期待していたのに──これだから人生は一筋縄ではいかない。

かくして、僕は、どうにか「恋」を書き切らなくてはならなくなった。

さて「恋」と聞いたときに、僕は、どうしても「愛」という言葉を連想してしまう。正確にいえば「恋と愛の違いはなんだろう?」という問いを思いだしてしまう。

この二つは「ポケットモンスター緑」の横に「ポケットモンスター赤」があるくらいセットで僕の頭のなかにあるのだ。(この一文は後でどう考えても削除すべきだと考えたが人類の負の遺産として残しておく)

「恋と愛の違いはなんだろう?」

ふとこの問いについて考える。いくつか、それっぽい答えに出会ったこともある。そういう言葉遊びが好きなのだ。発表するからとくと味わえ。

①「恋はするもの。愛は与えるもの。」

小学生のことにウッチャンナンチャンの南原さんがテレビでドヤ顔で披露していたものだ。子供心に、なぜか覚えてしまった。いまもふと思いだしたので書いてみた。

②「恋は服を着せる。愛は服を脱がせる。」

外国の文学者の誰かがどこかで書いていた。まったくもってその通りだ。これに首を縦にふらない人間はいないんじゃないだろうか。ルミネの伝説的なコピーに「試着室で思いだしたら本当の恋だと思う」があるけれど、そのものズバリだ。

③「恋は強いところをみせたくなる。愛は弱いところをみせたくなる。」

上の②を自分なりに解釈してみた。恋はまだ相手に近づけていない感じ。どこか背伸びして、相手に自分の存在を伝えたくなるところがある。反対に、愛はすでに近しい場所にいる感じ。相手にすべてをさらけだしたくなるイメージ。

④「恋はひとりでできる。愛はふたりじゃないとできない。」

これも前に考えたもの。

恋は一人称だ。憧れの先輩にだって、坂本龍馬にだって、テレビのなかのスターにだって恋はできる。自分ひとりで恋はできる。ある意味「風邪」みたいに「自分の状態」をさす言葉なのではと思う。

愛は二人称だ──この言い方が適切なのかわからないけど。相手がいないとはじまらない。擬似的な愛っぽいものを顔を会わせたこともない他人に投げかけることはできるけれども。

つまり愛とは、ふたりのなかで育むものなのだと思う。少なくとも、ひとりの世界で作りあげることはできない。なぜかはわからない。この街がまだジャングルだったころから、そうなっているのだ。

もちろん、恋にも、愛にも、それぞれの美しさがある。

しかし恋はいつしか、愛に変わる。

そして恋は愛に変わることはできるけれど、愛は恋に変わることができない。

そういうものだ。

ここで、そろそろ文章を書き終えてもいいかなと思いつつ、ふと自分の胸に手をあててみた。

それなりに人生をすごしてきた。いつのまにか「愛することができる人間」になれていたとしても「恋することができる人間」ではなくなってきている気がするなと思った。ちょっと、さびしいな。

あ、最後にひとつだけ。「愛」というワードで思いだした(体にする)けど、女性用情報サイトにて「読むだけでモテる恋愛小説」を連載してます。読め。

その夜、ポーカーを降りるように彼女は死んだ。

夜は若く、僕も若かったが、夜の空気は甘いのに、僕の気分は苦かった。

今回の文章は、はじめに忠告しておくと後味のいい話でないから気をつけてほしい。あなたには引きかえす選択肢もある。それでも書きたくなったのだけれど。

学生時代、僕は、ある京都のカジノバーに入りびたっていた。腹をすかせた猫の前にまたたびを投げこんだくらいポーカーに狂っていたのだ。

もちろん現金をかけるのは禁止だ。その店の飲食代になるチップを賭けて、毎晩のように遊んでいた。

それもいろんなツキのめぐったあげく、一生なくなりそうにない額がたまったので、いつ顔をだしても飲み食い放題というデタラメな状況だった。いろんな高級酒を味あわせてもらった。まったくもって店の不良債権だったと思う。

ポーカーというと、一晩中テーブルに配られるカードをめぐって、まわりの人間と話をすることになる。普段会えないような人種と。そこで千夜一夜物語のようにいろんな話をきいた。

そこで仲良くなった人物がいた。四つ上ほど――その店では比較的、歳の近いほうだった。あるとき「最近引越してきました。ポーカーが好きなんだ」と顔をだして、それ以降くだらない話をする仲になった。

料理人の修行中らしかった。彼の目下課題は、知らない土地で、知り合いをつくることのようだった。実際、僕も、明け方にラーメン屋に共にいくこともあれば、遠方のポーカー大会に連れられることもあった。

あるとき店にいくと、彼のとなりに女が座っていた。やや太めで、首もとのゆるい服装だった。じっとゲームに参加もせず携帯電話を触っていた。

「ああ、あいつ?」後日、彼はいった。のんきな男だった。「たぶん付きあってると思う。なんかクラブで声をかけたんだよ。風俗嬢なんだぜ?」

僕はとくに追求しなかった。あるいは毒にも薬にもならないことをいった。いくら若造でも、世のなかには、いろんな人生や生活があることくらいわかっていたから。

彼女とは、ときおり店で顔をあわせるようになった。

彼女はテーブルの会話には加わらなかった。彼もゲームのあいだは彼女の存在がないかのように冗談をいって、チップを賭けて、カードに一喜一憂した。

その間、彼女は、ずっと携帯電話をさわっていた。おとなしい小鳥のように、早朝になり、ポーカーテーブルが閉じられ、となりの恋人らしき男が残念そうにゲームを終えるのを待っていた。

半年ほどした夏の夜。彼は配られるカードをのぞきながらいった。

「ああ、あいつ自殺したんだよ」彼はカードを場に捨てた。勝負にならない札だったらしい。「いきなり、いまから死ぬからって電話があったんだよ」

「それで、どうしたんですか?」

「え?」

「かけつけたとか」

「いや」彼は手もとのチップにふれた。はやく次のカードを配ってほしそうだった。「だって遠かったから。救急車に電話したし――できることはないだろ?」

その話題はそこまでだった。僕に続きをたずねる勇気がなかったといった方が正しいかも知れない。その後も一晩中カードは配り続けられた。彼にとっては、カードのマークがそろっているかどうかの方が重要らしかった。

それから何年も経った。先月京都を歩いて、そのカジノバーが潰れているのを知った。大いなる不良債権である僕のチップ残高も消し飛んだわけだが、もの悲しいのはそのせいではなさそうだった。

そして、なぜか彼女のことを思いだした。

次の瞬間、僕は、そこに人生のなにがしかを感じた。生まれることもなく人知れず消えゆく胎児のようなものを。いまになって、ふと、それは誰にも理解されることのない「絶対の孤独」だったのかなと思う。

 

なあ俺たちは一度マジックを捨てなきゃいけないんだよ。

まあ、怒らずきいてくれ。

昨日、マジックバー「IDEAL」に学生時代の後輩がきてくれました。おめでとうございます、と、可愛い花をもらいました。

「そういや」そのあと後輩はカウンターにつくなり言いました。「浅田さんのマジックまったくみたことないですね」

ちょいと驚きました。さすがに一回や二回はあるだろうと思ったから。

僕は台風のときに窓の外を鯉のぼりの三倍くらいの謎の長い布みたいな物体が伝説の龍みたいに駆けあがるのをみて撮影しとけば絶対バズったやんという話をしてへらへら笑いながらも、ああ、日常でマジックをしなくなって、もうそんなに経つのか、と感慨深くなりました。 続きを読む