とりあえず「毎日4時間を1年間」できないなら諦めたら?

最近、年下の子と話すことが増えました。

なにごとかを成し遂げたいんだけど、どうしたらいいかわからない。わかってるんだけど、どうにも突き進めない──という感じです。

いつもなにかをいってあげたくなる。もちろん、僕が、なにか成し遂げた人間というわけではありません。数年だけ先に生まれたので、そのぶんだけ知っていることがある、というだけです。

彼らは「やりたいと思ってることがあるんですけど…」と話してくれます。

そのたびに僕のする話があります。

「毎日4時間、1年続けられるならやるべきだし、できそうもないなら挑戦しない方がいい」

というものです。

これはヤバイ話でもなんでもありません。よく考えると普通の話なのです。

よく言われるものに「一万時間の法則」があります。

どんな分野であれ、一万時間努力すれば、それで食っていけるランクになれる。という法則です。事実、モーツアルトやビートルズも一万時間練習したあたりでバズったらしいです。

一万時間というと「毎日3時間を9年間」「毎日7時間を4年間」というイメージです。

なにも誰も彼も一万時間やらないとプロ失格だ、生きていけない、というわけではありません。実際のところ、3000〜5000時間でどうにかやっていけるレベルになると思います。ただ、それくらいのボリューム感は絶対に必要です。

生まれつき練習せずに、すさまじい成果をのこせることなんてそうはありません。なぜなら、なにかで生きるとは、最高レベルのポテンシャルをもった猛者どもが、人生オールインしてる場所に突撃するということですから。3000~5000時間は最低限必要です。マジで。

そうです。なにかで生きていく(くらいのスキルを身につける)って、結局、どれだけ時間をかけて努力したかの話なのですね。必要な時間をみつもって「毎日どれくらいやればいつ達成するだろう?」と考えればいいわけです。

それに対して僕の提案した「毎日4時間を1年間」は「2660時間」です。

一万時間への、はじめの一步くらいの感じです。富士山でいうと二合目です。しらんけど。逆にいうと、それくらいできないと、それで生きていけるわけがないのです。

そして途中で投げ出すくらいなら、マジでやめたほうがいい。

費やした時間が無駄になるから。

少年ジャンプでは、主人公が努力するシーンはあっというまに飛ばされます。漫画的につまらないから。ゆえに、あっというまにシーンを終えて主人公たちは大冒険ばっかしてる印象を受けます。

しかし大事なのは、すっとばした「つまらない修行時代」にあるのですね。

つい何者かになった自分を想像して、ぴゅんすか到達したくなり気持はわかります。しかし、そのためには阿呆のような努力が必要なのです。これは人生の黄金ルールです。

これはガチです。信じてください。世のなかの君が憧れるような人間はみんなそれくらいやってるわけです。むしろ、そこからスタートです。世の中って、何千時間ホルダーが殴りあう場所みたいなとこがありますから。

「毎日4時間、1年続けられるならやるべきだし、できそうもないなら挑戦しない方がいい」

あなたの人生は貴重なものです。みずみずしいエネルギーを浪費するのは悲劇です。深刻に悩むのでなく、真剣に考えてください。健闘を祈ります。

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愛って恋2.0なんじゃない?

気まぐれに野球選手が庭でバットをすぶりしたくなるような気分のときにツイッターでエッセイのお題を募集することがある。

今回は「軽いのにしてくれよ」と注文した。朝から喫茶店にいきっぱなしの頭を休めたかったからだ。

恋。

恋。

わお。

どう考えてもヘビィじゃないか。人生の一大イベントじゃないか。

もっと「スイカ」とか「たぬき」とか「キャラメルポップコーン」とかを期待していたのに──これだから人生は一筋縄ではいかない。

かくして、僕は、どうにか「恋」を書き切らなくてはならなくなった。

さて「恋」と聞いたときに、僕は、どうしても「愛」という言葉を連想してしまう。正確にいえば「恋と愛の違いはなんだろう?」という問いを思いだしてしまう。

この二つは「ポケットモンスター緑」の横に「ポケットモンスター赤」があるくらいセットで僕の頭のなかにあるのだ。(この一文は後でどう考えても削除すべきだと考えたが人類の負の遺産として残しておく)

「恋と愛の違いはなんだろう?」

ふとこの問いについて考える。いくつか、それっぽい答えに出会ったこともある。そういう言葉遊びが好きなのだ。発表するからとくと味わえ。

①「恋はするもの。愛は与えるもの。」

小学生のことにウッチャンナンチャンの南原さんがテレビでドヤ顔で披露していたものだ。子供心に、なぜか覚えてしまった。いまもふと思いだしたので書いてみた。

②「恋は服を着せる。愛は服を脱がせる。」

外国の文学者の誰かがどこかで書いていた。まったくもってその通りだ。これに首を縦にふらない人間はいないんじゃないだろうか。ルミネの伝説的なコピーに「試着室で思いだしたら本当の恋だと思う」があるけれど、そのものズバリだ。

③「恋は強いところをみせたくなる。愛は弱いところをみせたくなる。」

上の②を自分なりに解釈してみた。恋はまだ相手に近づけていない感じ。どこか背伸びして、相手に自分の存在を伝えたくなるところがある。反対に、愛はすでに近しい場所にいる感じ。相手にすべてをさらけだしたくなるイメージ。

④「恋はひとりでできる。愛はふたりじゃないとできない。」

これも前に考えたもの。

恋は一人称だ。憧れの先輩にだって、坂本龍馬にだって、テレビのなかのスターにだって恋はできる。自分ひとりで恋はできる。ある意味「風邪」みたいに「自分の状態」をさす言葉なのではと思う。

愛は二人称だ──この言い方が適切なのかわからないけど。相手がいないとはじまらない。擬似的な愛っぽいものを顔を会わせたこともない他人に投げかけることはできるけれども。

つまり愛とは、ふたりのなかで育むものなのだと思う。少なくとも、ひとりの世界で作りあげることはできない。なぜかはわからない。この街がまだジャングルだったころから、そうなっているのだ。

もちろん、恋にも、愛にも、それぞれの美しさがある。

しかし恋はいつしか、愛に変わる。

そして恋は愛に変わることはできるけれど、愛は恋に変わることができない。

そういうものだ。

ここで、そろそろ文章を書き終えてもいいかなと思いつつ、ふと自分の胸に手をあててみた。

それなりに人生をすごしてきた。いつのまにか「愛することができる人間」になれていたとしても「恋することができる人間」ではなくなってきている気がするなと思った。ちょっと、さびしいな。

あ、最後にひとつだけ。「愛」というワードで思いだした(体にする)けど、女性用情報サイトにて「読むだけでモテる恋愛小説」を連載してます。読め。

その夜、ポーカーを降りるように彼女は死んだ。

夜は若く、僕も若かったが、夜の空気は甘いのに、僕の気分は苦かった。

今回の文章は、はじめに忠告しておくと後味のいい話でないから気をつけてほしい。あなたには引きかえす選択肢もある。それでも書きたくなったのだけれど。

学生時代、僕は、ある京都のカジノバーに入りびたっていた。腹をすかせた猫の前にまたたびを投げこんだくらいポーカーに狂っていたのだ。

もちろん現金をかけるのは禁止だ。その店の飲食代になるチップを賭けて、毎晩のように遊んでいた。

それもいろんなツキのめぐったあげく、一生なくなりそうにない額がたまったので、いつ顔をだしても飲み食い放題というデタラメな状況だった。いろんな高級酒を味あわせてもらった。まったくもって店の不良債権だったと思う。

ポーカーというと、一晩中テーブルに配られるカードをめぐって、まわりの人間と話をすることになる。普段会えないような人種と。そこで千夜一夜物語のようにいろんな話をきいた。

そこで仲良くなった人物がいた。四つ上ほど――その店では比較的、歳の近いほうだった。あるとき「最近引越してきました。ポーカーが好きなんだ」と顔をだして、それ以降くだらない話をする仲になった。

料理人の修行中らしかった。彼の目下課題は、知らない土地で、知り合いをつくることのようだった。実際、僕も、明け方にラーメン屋に共にいくこともあれば、遠方のポーカー大会に連れられることもあった。

あるとき店にいくと、彼のとなりに女が座っていた。やや太めで、首もとのゆるい服装だった。じっとゲームに参加もせず携帯電話を触っていた。

「ああ、あいつ?」後日、彼はいった。のんきな男だった。「たぶん付きあってると思う。なんかクラブで声をかけたんだよ。風俗嬢なんだぜ?」

僕はとくに追求しなかった。あるいは毒にも薬にもならないことをいった。いくら若造でも、世のなかには、いろんな人生や生活があることくらいわかっていたから。

彼女とは、ときおり店で顔をあわせるようになった。

彼女はテーブルの会話には加わらなかった。彼もゲームのあいだは彼女の存在がないかのように冗談をいって、チップを賭けて、カードに一喜一憂した。

その間、彼女は、ずっと携帯電話をさわっていた。おとなしい小鳥のように、早朝になり、ポーカーテーブルが閉じられ、となりの恋人らしき男が残念そうにゲームを終えるのを待っていた。

半年ほどした夏の夜。彼は配られるカードをのぞきながらいった。

「ああ、あいつ自殺したんだよ」彼はカードを場に捨てた。勝負にならない札だったらしい。「いきなり、いまから死ぬからって電話があったんだよ」

「それで、どうしたんですか?」

「え?」

「かけつけたとか」

「いや」彼は手もとのチップにふれた。はやく次のカードを配ってほしそうだった。「だって遠かったから。救急車に電話したし――できることはないだろ?」

その話題はそこまでだった。僕に続きをたずねる勇気がなかったといった方が正しいかも知れない。その後も一晩中カードは配り続けられた。彼にとっては、カードのマークがそろっているかどうかの方が重要らしかった。

それから何年も経った。先月京都を歩いて、そのカジノバーが潰れているのを知った。大いなる不良債権である僕のチップ残高も消し飛んだわけだが、もの悲しいのはそのせいではなさそうだった。

そして、なぜか彼女のことを思いだした。

次の瞬間、僕は、そこに人生のなにがしかを感じた。生まれることもなく人知れず消えゆく胎児のようなものを。いまになって、ふと、それは誰にも理解されることのない「絶対の孤独」だったのかなと思う。

 

なあ俺たちは一度マジックを捨てなきゃいけないんだよ。

まあ、怒らずきいてくれ。

昨日、マジックバー「IDEAL」に学生時代の後輩がきてくれました。おめでとうございます、と、可愛い花をもらいました。

「そういや」そのあと後輩はカウンターにつくなり言いました。「浅田さんのマジックまったくみたことないですね」

ちょいと驚きました。さすがに一回や二回はあるだろうと思ったから。

僕は台風のときに窓の外を鯉のぼりの三倍くらいの謎の長い布みたいな物体が伝説の龍みたいに駆けあがるのをみて撮影しとけば絶対バズったやんという話をしてへらへら笑いながらも、ああ、日常でマジックをしなくなって、もうそんなに経つのか、と感慨深くなりました。 続きを読む

僕はパリコレにでることができない|一日三食もくえねえよ。

「ちゃんと食べてますか?」

だれしも初対面やひさしぶりの相手にいわれやすい言葉があるだろう。

僕の場合はダントツでこれだ。ちなみに二位は「なんか身長のびました?(僕は他人の頭のなかで身長が低めに記憶されるらしい)」で、三位は「薄着ですね(冬限定)」である。 続きを読む

コピーライター講座で学んだたったひとつのこと|幻の〝青春18きっぷ〟のコピーについて

 

夏の日だった。二十代前半だった。

ただ若さをすり減らすよりマシだとコピーライター講座に申しこんだことがある。半年で十五万円くらい。もらった会報には白髪やシミの浮かんだ肌で「我々は一時代を築きました」みたいな顔ぶれがあった――だれもわからなかった。

親の世代なら恍惚の顔をするのかもしれないなと思った。

数十年前には、こうすれば最先端になれますよと〝お洒落なライフスタイル〟を提案してくれるものこそ、よろこばれる時代があったらしいから。 続きを読む

おもしろい話ができるようになりたいと思ってる君へ。来なさい。

深夜のテンションで「会話上手になるコツ」を紹介します。

・モテたい
・会話でこまることが多い
・パーティや合コンで目立ちたい
・人気者になりたい
・コミュニケーションに自信をつけたい
・まわりを楽しませたい
・退屈されたくない
・おもしろい人間だと思われたい
・M-1に出場したい

いろんな目標があるかと思います。「どうやったら、おもしろいと思ってもらえるんだろう」って永遠の課題ですよね。

さっそく結論からいいますと「あなたは喋らなくてよし」です。2:8の2くらいでいいんです。濃いめのカルピスくらいです。まじで。これはアポロがじつは月面に着陸しなかったのと同じくらい真実です。 続きを読む

「君の表現は閉じてるんだよ」と小説家にいわれたことがある。

 

 

 

 

 

 

 

 

小説家の知人(先輩?)がひとりいる。

ここで彼の代表作を暴露してやりたいが、その心をぐっとおさえる。

とにかく人生を変えてくれた一人だ。余談だけれど、彼とはじめて会ったとき、ふと気づけば10時間以上もブッ続けに話しこんでいてやべえなと思った。そのオールナイトの翌朝、たがいに疲れた顔で「またな」と別れたけれど、その「またな」は、人生にままある本当の「またな」だろうなと感じたのをおぼえている。 続きを読む

マジックに対する絶望を、芥川龍之介に救ってもらった話。

僕は、そこそこ人生の貴重なときをマジックにぶちこんだ人間だ。

それ自体はどうでもいい。一人暮らしの男子大学生が、ちょっと自炊に調子をこいてきたときにチャーハンにウェイパーをぶちこむようなものだ。だれしも、なにかに、なにかをぶちこんでいる。

もう十代のころから――なんと日々の過ぎゆくことよ――ずっとマジックは心の宗教というか〝信じるに足るもの〟だった。毎晩練習して、カード一枚当てていれば、コイン一枚消していれば、どこかにいけると信じていた。 続きを読む