マジシャンには、スタイルが不可欠だとおもいます。
文学なら文体、スポーツならフォーム、どんな分野でも、そうなのかもしれません。
なにを考えていても、結局のところ、目にみえるのは形式だけです。
精神は形にして、はじめて表現される、ということでしょう。
おもえば、いままで、自分がパフォーマンスについて考えてきたのは、
「いかに己のスタイルを獲得するか」ということだったのかもしれません。
それなりに苦心してきたなかで、なんとなくわかってきたこともあります。
そうした方法論を、まとめてみようとおもいました。
演技者のスタイルとは、キャラクターだということもできます。
すると「自然体で、ありのままマジックをすればいいんだ。それが一番なんだ」
という考えも、当然ありえます。
つまりスタイルなんかいらないでしょう、不自然でしょうという説です。
これには、昔から賛成できませんでした。
いくつか理由はありますが、そもそも「自然体の演技」というものがあいまいです。
台本も考えず、きれいな衣装もなしに、おもいつきのまま進行することでしょうか。
観客の質問に、友だちづきあいのような言葉をかえすことでしょうか。
そんなものが、おもしろいパフォーマンスになるでしょうか。
そして「演技用のキャラクター」を嫌うのもわかりますが、
はなから我々は、日常で、いくつもキャラクターを演じているではありませんか。
先生の前で、家族の前で、恋人の前で……そして観客の前で。
それらの集合体が「あなた」なのではありませんか。
でなくば「あなた」なんてどこにありますか。
だから、演技用の仮面のあるのも、あたりまえだとおもうのです。
それもビジネスですから、多少きどってみせるのすら、礼儀のような気がします。
さらにマジックとは、観客に対して、つねに裏側をつくる行為です。
表と裏のつかいわけ……嘘が必要になります。
つねに本心でいられない。
そこに、キャラクターの余地があるわけです。
つまりマジックであるかぎり「自然体の演技」など、ありえないのではとおもうのです。
そして、どうせ仮面をかぶるなら、きれいな仮面がいいじゃないですか。
それがスタイルです。
ここで、詩人コクトーの言葉をひいてみます。
「スタイルは出発点になることはできない。それは結果としてあらわれるべきだ」
本当にこのとおりだとおもいます。
つまり「なんか独自のものがほしいから、とりあえず形づくったキャラクター」と、
「追求のはてに生まれたスタイル」はことなる、ということです。
というより、前者は「あってはならない」ともいえるでしょう。
独自に獲得したスタイルと、むりくりにつくったキャラクターはまるでちがう。
比喩的にいうなら、ちゃんと根からのびて、葉をしげらせる木と、
どこかから枝をもってきて、土にさしただけの木のちがいです。
そんなもの、すぐ枯れてしまいます。
このように考えると「スタイルいらないんじゃないか説」とは、
「むりくりにつくったキャラクター」のことであり、
「己から生まれたスタイル」を否定してるわけではない、とも考えられます。
ある意味では「自然なあなたらしさ」にほかならないからです。
そう、ここでいう「スタイル」と、いわゆる「キャラクター」は、まるでちがいます。
不死鳥とインコくらいちがうのです。
「芸の追求のはてに、結果として生まれる、自分らしさ」のことです。
精神が、本質が、修練のあと、ついに形としてあふれるようなものです。
本質を追求していくと「これでしかあらわせない」という、形式がみつかるはずなのです。
辛口にいえば、スタイルがないということは、
まだそれほど本質にいたっていない、内容の煮つめ不足である、ともいえます。
そしてスタイルは、かえることができません。
自分の延長線上にあるものだから「あ、あれいいな、真似しよ」なんてできません。
あくまで、己をほりさげることでしか、生まれないのです。
そこから逃げることもできますが、
むきあうことでしか手にはいらない「本当のあなた」というものもあります。
いろんなマジシャンを想像してみてください。
浮かぶのは、みなカッコよくて、だれの真似でもないスタイルばかりでしょう。
もちろん「ああいいな」でおわることもできます。
けれど、問題は「そうなるにはどうすればいいのか」ということなのです。
それには、自分を追求するしかありません。
抽象的にいうなら、そうなります。
そして具体的にいうなら「自分の理想をみつけるべし」になります。
結局のところ、僕のしてきたこと、いましてることも、これにつきます。
いろんなパフォーマーのいるなかで、
「このひとは無視できない」「なんか気になる」「好きなんだよ」「いいね!」
というスタイルがあるはずです。
その奥に、あなたのもとめる像があるのです。
ここで注意するのは「やべえ」は、またべつものになります。
それは単純に、すごいから感動しているだけで、あなたの資質と関係ありません。
たとえば僕も、レナートグリーンやタマリッツにおどろきますが、
それは彼らのスタイルが圧倒的なだけです。
そして理想のスタイルをみつけたなら、徹底的に研究・分析をしましょう。
ほかのマジシャンなんかほっておきましょう。
みつめるべきは彼らのスタイルだけです。
「形からスタイルはつくれない」とはいいましたが。
あくまで形を真似するのでなく、自分にとけこませるイメージです。
映像をみつづけるのをおすすめします。
映像をみるとは「会う」のに、かぎりなく近いからです。
本当に模倣したいのであれば、弟子入りするしかありませんが。
まあそのかわり、ひたすら「みる」のです。
理屈でも、感覚でも、手のブレでも、視線のやり場でも。
動作、思考、センス、あらゆることを推測しましょう。
すこしでも近づけるよう、意識してください。
そのためには、難しい調整も必要でしょう、気にくわない矯正もあるでしょう。
逆説的なようですが、形を真似ることでしか、学べない精神もあります。
そのうち、自分らしさが、ひょいとあらわれるはずなのです。
北をめざして、南に到着することはありません。
めざしてる方角さえまちがいなければ、ゆっくりでも目的地に近づけるものです。
問題は「めざしているかどうか」だけです。
さて、さらに、これはないしょにしたかったんだけどまあいいや。
スタイルはマジシャンでなくても、あちこちに、すぐれたものがあふれています。
つまり「マジシャン以外からスタイルをもちこむ」こともできます。
マイケルジャクソンでも、ルフィでも、織田信長でも、半沢直樹でもいいわけです。
これは以外と盲点です。
さあ、ここまでくると、
スタイルの追求とは「理想さがしの旅」ということもできるかもしれません。
しかしそんな彼らもまた、なにかの理想をおっているわけです。
へんな話ですね。
さあ、ここで理想をみつけて、
なんとか自分の演技らしきものをつくったあなた。
おめでとうございます。
あなたは「よくできた、だれかの劣化版」です。
ということをさけなくてはなりません。
そう、理想をもとめるだけではいけないのです。
あくまで目標は、理想に到達することでなく、
その過程で、己のスタイルをみつけることだからです。
これをまちがえると無残なものができあがります。
「あのひとならこうするだろうな」のあとに、
「でも、自分はこうするんだ」を生みださないといけません。
ものさしとして、理想を「つかわせてもらった」だけなのですから。
脱却してはじめて、意味がでてきます。
まさに、守破離ですね。
そしてこれが大事なのですが「まねる」のは、基本的に失礼な行為です。
苦労したものを、コピーされるのは気にくわんものです。
盗んでへらへらしてるのは、盗まれたことのないひとばかりです。
そこにおそれのない人間は、なにものも理解できないことでしょう。
せめて、スタイルに敬意をはらうこと。
僕だって、本人になにかいわれたら、ただちに土下座する覚悟はあります。
盗むならエレガントにいきましょう。
また「三人まぜるとお里がしれないよ作戦」というのもあります。
これは、かつてMr.ポン太 the スミスに、相談したときいわれたものです。
たぶん本人はわすれているでしょう。
「一人を模倣するのでなく、三人をまねること」これにつきます。
絵の具のように、あなただけのグラデーションを発揮すればよいのです。
あらゆる「よきもの」をとりこみましょう。
「なんとなくわかるけど、さらに具体的にどうすんの?」という声もありそうです。
けれど、ここから先は書きません。
僕自身も手さぐりですし、めんどくさいし、
このあたりを考えることから、すでにはじまっているからです。
すくなくとも、スタイルをもとめることが、スタイルのはじまりなのですから。
どんな崇高な精神であれ、感性であれ、形にしなければつたわりません。
そう、スタイルとは、自分にあった「つたえかた」なのです。
我々のすべきは、まずスタイルをつくること。
いまのところ、そう確信しております。