「鉄板ネタ」を演じてはいけない

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ある時期「鉄板ネタ」をしなくなりました。
おもうことがあったからです。

具体的には、アンビシャスカード、フォーク曲げ、
シカゴオープナー、トライアンフ、ラストトリック……そのあたりです。
とくに前者ふたつは徹底しました。

いまは演じもしますが、
いわゆる「鉄板ネタ」「ウケネタ」には、考えることもあります。
それについて書いてみます。

 

「必ずウケる」とは

 

「トリックとしてすぐれている」ということです。
簡単であり、ばれにくい、準備もめんどうでなく、おぼえやすい、などもあるでしょう。
なかでも「高確率で観客をよろこばせられること」が、目安になります。
まさに上にあげたものです。

これらは、いつだれが演じても「ウケる」のです。
フレッドカップスが演じても、小学生が演じても、かわらない可能性すらあります。
トリックの現象は、マジシャンからはなれても成立すること。
観客からは、裏側のこまかなちがいのみえないこと。
これらが理由です。

モーツァルトをひくには修行がいりますが、
あまり練習せずとも、観客のよろこぶ、名曲をひけるようなものです。
まわりは、おしみない拍手をくれます。

一生懸命、学んだものより、拍手のおおきく、
むこうから「例のあれみせてよ」と、いわれることすらあります。
「じゃあフォーク曲げるだけでいいのかい」と、おもわないでもありません。
観客のよろこびをめざす身としては、なかなかむなしい瞬間です。

 

あなたである意味がない

 

そんなとき、ふとおもいました。
ああ、ここにいるのは僕じゃなくていいじゃないか、と。
おそろしいことでした。

観客はマジックを気にいってくれたとしても。
それは「僕のマジック」をみたがっているのではありませんでした。
ただ「ウケネタ」に興奮していただけなのです。

つまり、ほかのマジシャンがきて、アンビシャスカードをしても、
観客たちはそのまま、おなじ賛辞をなげかけることでしょう。
たまたま僕がそこにいただけです。

これがコンビニの店員や、交通整備のように、
「ただ作業をこなすこと」が仕事であれば、そのまま披露してもいいかもしれません。
ギャラはもらえますし、生きていけるでしょう。
マジシャンはめずらしい、ちやほやされる(ちいさな世界でなら)職業ですから。

しかし、マジシャンとは、そんなものでしょうか。
だれでも、かえのきくことをするだけの、自販機みたいな存在でいいのでしょうか。
なかなかヘビィな問題です。

むしろ、観客にとって「かけがえのない存在」であるような、
「かけがえのない記憶」でいられるような、そんな表現者であるべきではないかと。
僕の信じるマジックとは、マジシャンとは、そういうものでした。

それは「マジックはオーダーメイド」だといいながら、結局、
ほかとにたようなことをして、すませることではありません。
一期一会の、心から、あいての人生に語りかけるなにかのはずです。
我々のマジックは、もっと、すばらしい表現のはずなのです。
そうではありませんか。

 

成長の妨げになる

 

たしかに、その場の拍手が目的なら、アンビシャスカードばかりするべきです。
けれど、あなたの人生のように、ながい目でみた拍手、というのもあるはずです。

それは、努力することでしか手にはいりません。
安易な道をとることはできないのです。

すぐれた作品は、だれもがのりこなせる名馬のようなものです。
レースには勝てるかもしれません、賞金もあれば、ちやほやもされるでしょう。
ただ、乗り手としての、あなたの成長にはならないのです。
ゆえに危ない……マジシャンとしての人生をあゆみたいならですが。

むしろ、それらを封印して。
裸の自分だけを、客前にさらして、何度も敗北すべきではないでしょうか。
すくなくとも、僕はそう考えました。

クラシックを演じるな、というのではありません。
そのあとに、堂々とのりこなせばいいのです。
本当の意味での、名作の、真価をひきだせるというものです。

あるいは、これも極端すぎた話かもしれません。
パフォーマンスとして「鉄板」をするのも正解でしょうから。
それにしても「これも名馬のおかげだ」くらいの、謙虚さは必要でしょう。
そんな話でした。