「無駄をはぶく」とは

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われわれは、生きているかぎり、なにかをつくらねばなりません。
マジックでも、今晩の夕飯でも、卒論でも、明日の会話でも。

そして、ひとには「いいものをつくりたい」という、謎な欲求があります。
そのためには、不要なものをすてなければなりません。

つくりこむとは、無駄をなくす作業だからです。
ものごとは「これ以上はぶけないところまで、けずらねばならない」のです。

と、いうのは簡単です。
これは、もはや、だれもが口にする「ちょっとした真理っぽい言葉」ですらあります。

これは、そんなに単純なことなのでしょうか。
ちょっと考えてみます。

 

Less is more

 

かつては、装飾に装飾をして、ゴージャスでいることが、豊かさでありました。
けれど一世紀ほどまえから、人間は「そぎおとすこと」に、快感をおぼえだします。

シャネルは、コルセットや色めいたドレスをなくし、女性に黒スーツをきせました。
ヘミングウェイは、形容詞や、心理描写をはぶいた、簡潔な文体をつくりました。

百年前の建築家の「Less is more」は、あまりにも有名な言葉です。
「すくないことは、より豊かである」のです。

極限まで、そぎおとした形こそが、正解であり、美しさなのです。
無駄のないものは、それだけで美しいのです。

なぜでしょうか。
シンプルな形ほど、あらゆるものからの、抵抗がすくないからです。

そもそも、この世では「存在している」ことが異常な状態です。
むしろ「無」に近いほうが自然であり、より「身軽」なほうが遠くまでいけるのです。

ききかじりですが、新幹線をつくるときに。
美しい形をめざしたら、はやいものができた、という話をおもいだします。

「シンプルなもの」は物理的にも、時間軸にも「抵抗がすくない」のです。
空気抵抗もすくなければ、後世にものこりうるし、ひとの心にもしみいるのです。

美しさは、つたわりやすさです。
そのためには「よりすくないもので、おおくのことを語る」のを、めざすべきです。

 

無駄をみぬく力

 

とはいえ「引き算の美学」は、そんな簡単なものではありません。
「無駄をなくせばいいのね」ですむなら、世のなかは、もっとスマートなはずです。

僕もマジックをつくるときに。
無駄をなくしたはずなのに、まだ無駄にまみれていた、という経験があります。

「もう大丈夫、完璧。そういう感覚とか、十分わかったし」とおもいきや。
しばらくして、過去の作品が、ためだめにみえてしまうのです。

おおきく三回ほど、そんな波のあった気がします。
いまも、四回目のないか、おびえています。

そぎおとしてもそぎおとしても、いくらでも無駄はみつかります。
つまり……無駄をみつけるにも、修行がいるということです。

そう、「無駄をはぶけばいい」は、だれでも口にできます。
けれど、本当に大事なのは「なにが無駄なのかみぬく力」なのです。

 

Less よりまず more 

 

その「なにが無駄なのかみぬく力」は、どのように養うのでしょう。
若造なりに、精一杯、わかったふうな口をきいてみます。

まずひとつに、わかったふうな口をきかないことだとおもいます。
立派な言葉は、それだけで、えらくなった気分になれます。

けれど、すべては、実践できるかどうかです。
われわれは、言葉でなく、作品でしめさなくちゃいけません。

一流のひとの言葉は、その裏の努力が、顔をだしたものにすぎません。
その努力なしに、言葉だけ借りても、なんにもならないのです。

そのためには、あたりまえの道を、あたりまえにいくべきでしょう。
「引き算」のまえには「足し算」であります。

「引く」には、まず「足す」ことを、しらなくてはなりません。
たくさんの無駄を製造して、ようやく、かりこむ時期がくるのです。

「すぎたること、なお、およばざるがごとし」とは、いいますが。
「いきすぎた」あとでないと「その加減」は、わからないものなのです。

まずは盛ること、なにも気にせずつくること。
へんなことを考えず、ひた走ることであります。

気のきいたことをいうのは、そこからで十分まにあいます。
さとったことをいうまえに、若者は、一度、とがらなくてはいけない。

無駄にみえることもしましょうよ、と。
そんな感じでした。