「氷山の理論」で演技をけずる

201302032000

 

 

 

 

 

 

 

「無駄をはぶく」とはで、つくりこむとは、無駄をなくす作業だといいました。
もうすこし、ほりさげてみます。

そもそも、「いらないものをはぶく」のは、大変なことです。
基準もわからなければ、もったいない気もします。

けれど「はぶく」ことでしか、ものごとは美しくなりません。
われわれは、どのようにして「はぶいていく」べきなのでしょう。

そんなとき、いつもこの、ヘミングウェイの文学理論をおもいだします。
おしいアイデアも、気前よく、ぽーんとすてられる気がするのです。

 

ヘミングウェイの「氷山の理論」とは?

 

『作家が、主題を熟知しているのなら、すべてをかく必要はない。
十分、真実味をもってかいてあるなら、読者は、省略した部分さえも、強く感得できるはずだ。
氷山の威厳は、水面下にかくされた、8分の7の部分による』

意訳ですが、そういうことです。
作品の威厳は、目にみえる部分だけにあるのではない、と。

氷山の一角から、海にひそむ、どでかい形を想像するように。
観客は、パフォーマンスの奥にある、あらゆるものを「感じる」のです。

すてたアイデアや、私生活、努力の量、台本の有無……どれだけなまけているか。
つきつめれば、観客は、マジックをとおして、マジシャンの生き様をみるのです。

これは、こわくもあり、救いでもあります。
なくなくすてたアイデアも、無駄にならず、氷山の糧になるというのですから。

「のこす部分」のため「はぶいた部分」は、けして無駄にならない。
むしろ「訴えかける」ものになる……これなら容赦なく、かりこめる気がしませんか。

 

氷山の落とし穴

 

だからと、なんでも、はぶいていいわけではありません。
むしろ「どこをはぶくか」に、一層慎重になるべきです。

この理論はあくまで、
「選りすぐった部分をとりだしても、観客は全体を感じるものだ」というだけです。

こちらの都合で、どこを、けずってもいいのではありません。
「はぶく」のと「手をぬく」のは、ちがいます。

吟味に、吟味した、効果的な部分だけをのこすのです。
それをみぬくのにも、修行がいるでしょう。

これは、楽をするための理屈ではありません。
つくりこむための、理論なのです。

徹底的につくりこむからこそ、部分をとりだしても、全体がいきるのです。
はじめから、ちいさなパーツだけをつくるのとは、わけがちがいます。

100のものをつくるとして。
普通は0からはじめて、100でおわります。

それをまず300つくり。
そこからけずって、100にしたほうが濃密なものができる。
観客は、けずりおとした200も感じられるはずだ、ということです。

 

最愛のものをはぶく

 

『もし君が、はぶいたことを自覚しており、その部分がストーリーを強め、
人々に、彼らが理解する以上のものを感じさせる場合には、なんでもはぶいていい』

そして「はぶく」のは、完全に、熟知しているものにかぎるべきでしょう。
自信をもって「表現できる」部分をこそ、はぶくのです。

よくわからない、できない、表現できるか不安だから、はぶくのはでありません。
そんなものをはぶいても、なんにもなりません。

「できないからはぶく」のでなく「できるからはぶく」のです。
「完全に表現できる」からこそ、その部分を、はぶいてもいいのです。

「自分で表現できない」ものをはぶくのは、能力不足のいいわけでしょう。
「できるけどやらない」のと「できないからやらない」のは、おおちがいです。

あくまで、これは「表現しないための」理論でなく「表現するための」ものなのです。
そんな、先人の知恵でした。