「無駄をはぶく」とはで、つくりこむとは、無駄をなくす作業だといいました。
もうすこし、ほりさげてみます。
そもそも、「いらないものをはぶく」のは、大変なことです。
基準もわからなければ、もったいない気もします。
けれど「はぶく」ことでしか、ものごとは美しくなりません。
われわれは、どのようにして「はぶいていく」べきなのでしょう。
そんなとき、いつもこの、ヘミングウェイの文学理論をおもいだします。
おしいアイデアも、気前よく、ぽーんとすてられる気がするのです。
『作家が、主題を熟知しているのなら、すべてをかく必要はない。
十分、真実味をもってかいてあるなら、読者は、省略した部分さえも、強く感得できるはずだ。
氷山の威厳は、水面下にかくされた、8分の7の部分による』
意訳ですが、そういうことです。
作品の威厳は、目にみえる部分だけにあるのではない、と。
氷山の一角から、海にひそむ、どでかい形を想像するように。
観客は、パフォーマンスの奥にある、あらゆるものを「感じる」のです。
すてたアイデアや、私生活、努力の量、台本の有無……どれだけなまけているか。
つきつめれば、観客は、マジックをとおして、マジシャンの生き様をみるのです。
これは、こわくもあり、救いでもあります。
なくなくすてたアイデアも、無駄にならず、氷山の糧になるというのですから。
「のこす部分」のため「はぶいた部分」は、けして無駄にならない。
むしろ「訴えかける」ものになる……これなら容赦なく、かりこめる気がしませんか。
だからと、なんでも、はぶいていいわけではありません。
むしろ「どこをはぶくか」に、一層慎重になるべきです。
この理論はあくまで、
「選りすぐった部分をとりだしても、観客は全体を感じるものだ」というだけです。
こちらの都合で、どこを、けずってもいいのではありません。
「はぶく」のと「手をぬく」のは、ちがいます。
吟味に、吟味した、効果的な部分だけをのこすのです。
それをみぬくのにも、修行がいるでしょう。
これは、楽をするための理屈ではありません。
つくりこむための、理論なのです。
徹底的につくりこむからこそ、部分をとりだしても、全体がいきるのです。
はじめから、ちいさなパーツだけをつくるのとは、わけがちがいます。
100のものをつくるとして。
普通は0からはじめて、100でおわります。
それをまず300つくり。
そこからけずって、100にしたほうが濃密なものができる。
観客は、けずりおとした200も感じられるはずだ、ということです。
『もし君が、はぶいたことを自覚しており、その部分がストーリーを強め、
人々に、彼らが理解する以上のものを感じさせる場合には、なんでもはぶいていい』
そして「はぶく」のは、完全に、熟知しているものにかぎるべきでしょう。
自信をもって「表現できる」部分をこそ、はぶくのです。
よくわからない、できない、表現できるか不安だから、はぶくのはでありません。
そんなものをはぶいても、なんにもなりません。
「できないからはぶく」のでなく「できるからはぶく」のです。
「完全に表現できる」からこそ、その部分を、はぶいてもいいのです。
「自分で表現できない」ものをはぶくのは、能力不足のいいわけでしょう。
「できるけどやらない」のと「できないからやらない」のは、おおちがいです。
あくまで、これは「表現しないための」理論でなく「表現するための」ものなのです。
そんな、先人の知恵でした。