「いいもの」を、シェアしない贅沢

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友人と、はじめての喫茶店にいったときのこと。
まわりをながめて「いいところだね」という話になりました。

そのとき、僕はメニューをながめていましたが、
友人は「つぶやこう」と、携帯をとりだしました。

なんとなく、むなしくなりました。
ああ、まわりに報告しないでは、いられない時代になったのだな、と。

いいものを紹介したら、いつのまにやら、SNSに投稿されていたこともありました。
「僕は、君の自己顕示でなく、君のためにおしえたのに」と、おもいました。

まあ……SNSとは、そういうところです。
つまるところ、すべての投稿は「ぼくここにいるよ! ぼくの人生をみて!」であります。

みんな報告したくて、うずうずしているのです。
自分がいかに、いいものにかこまれているかを。

そんなフェイスブック、ツイッターも、たまには「イタい」「うざい」こともあるでしょう。
けれど、否定はしません。

結局、人間はみんな、大人でさえ(だからこそ?)さびしがりやだからです。
むしろ、かわいらしいことです。

けれど、加減は必要でしょう。
まわりを気にして、自分の人生をからっぽにしては、意味がありません。

われわれは「まわりに報告するために生きてるんじゃない」のであります。
自身の人生を、ゆたかに生きるために、生きているのです……だとおもいたい。

だとするなら「いいもの」をひろめるのは、もっとあとの話です。
まずはそれをあじわう、大切にするのが、第一ではありませんか。

なんというか、個人的な感覚ですが、
簡単に「いいものを」を、つぶやいて、シェアすると「けがしてしまう」気がするのです。

せっかくすばらしいものなのに。
自己アピールのために、その「いいもの」を利用したようで。

どれだけいい喫茶店をみつけても、かよいつめ、ひとりでじっくりあじわって。
大事なときに、そっと友人をつれていく、それくらいでいいじゃないですか。

「シェアしない贅沢」は、たしかにあるはずです。
ないしょを秘めただけ、心は花をさかせるのではありませんか。

これは、いくらか前には、あたりまえのことだったのに。
いまや……文明は驚異であります。

そんな、ふるくさいことを考えました。
なるほどなとおもったら、シェアしてください。