マジシャンが「ラッスンゴレライ」を分析する

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芸人さんのパフォーマンスは、とても参考になります。
こまかな工夫や、構成、台詞まわし……つい、いろいろ考えてしまいます。

今回は「8.6秒バズーカー」の「ラッスンゴレライ」について。
もはや、テレビでみない日はなく、社会現象の感すらあります。

若造マジシャンなりに「なぜウケているのか」を、考えてみました。
これほどの現象には、なにかわけのあるはずなのです。

 

①ラッスンゴレライは「現代的」である

 

いまは動画の時代だ……とは、だれもがいいます。
芝居でもなく、映画でもなく、テレビでもなく、動画なのです。
それは、つまり、どういうことでしょう。

「またないでいい時代になった」のです。
週一度の、放送日をまつこともなく、すきなものをみられます。
それも退屈なシーンをとばして「いいとこ」だけを。

すると、なにが「ウケる」ようになるか?

クイックビジュアルなものです。
マジックでいえば「フォーク曲げ」「口からトランプ」「水槽に手を貫通」あたりでしょう。
まさにどこかで、みたことがあるじゃありませんか。

トークも漫才もコントも、なんか最後までみるのめんどくさい。
さっさと「オモロイ部分」をみせてほしい……パッとみて、パッとおわりたい!はやく!はやく!
そんな感じです。

現代人は、いそがしいし、たくさんの情報をさばくのが、めんどくさいのです。
ゆったり全部をあじわうのでなく、クライマックスだけほしいのです。
いまや、そんな「十秒勝負の時代」であります。

十秒です……一分ですら、動画をみるのはめんどくさいでしょう?
問題は、十秒で観客をひきつけられるかです。

それを逆手にとる「いいやちがうぞ」という、攻めかたもあるでしょう。
けれど「完全にのっかる手」もあるわけです。

それが、リズムネタです。
そして「ラッスンゴレライ」は、それをつきつめた形です。

あれはキャビアでも、フォアグラでも、トリュフでもありません……牛丼です。
現代らしく「はやい、安い(無料)、うまい」を、地でいってるのであります。

 

②ラッスンゴレライは「無意味」である

 

パフォーマンスのなかでも「ラッスンゴレライ」は、意味をあかされないままです。
つまり、無意味です。

一連のながれは、結局「無意味」なことをしているわけです。
ストーリーや、ながれのある、漫才やコントとは、そこがおおきくちがいます。

それはどういうことか?

「むずかしく考えなくてゆるされる」「表面的な理解でゆるされる」ということです。
パフォーマンスに、意味はないのだから、そうすることしかできない……むしろ正解なのです。

まったく無意味な行為。
それは「頭をつかわなくていいからラク」なのです。

このめんどくさい時代に、
ひたすら「受け身でゆるされる」のは、ありがたいことでしょう。

映画や、小説、その他の芸も、観客をたのしませるためにつくりますが。
積極的に「無意味」であるのは、この「ラッスンゴレライ」くらいのものです。

理解することをゆるさず、ひたすら、観客を「受け身」にさせる。
これはバズーカーのように強力です。

まさに、観客を「意味わからん」といわせつつ、
「もうラッスンをまってマッスン状態」に、おとしこむのであります。

 

③ラッスンゴレライは「刺激」である

 

そこいらで「ラッスンゴレライおもんない」という話もききます。
もちろん、好みもあるでしょう。

けれど、再生・検索数はのびており、まねするひとはたくさんいます。
「もとめる声」はあるわけです。

そこで、このパフォーマンスの本質は「おもしろさ」でないのでは。
そんなことをおもいました。

たしかに、爆笑するタイプのものではないでしょう。
自然と、動画再生してしまう「クセになる」ようなものです。

それは……つまり「刺激」ではないか?

ちょうど、パチンコのような「刺激」です。
電子画面に「たのしげなこと」が、チカチカ、こきみのいいリズムでながれるのです。

「おもしろさ」にはあきますが、「刺激」はいつまでもほしくなります。
「ラッスンゴレライ」には、そんな中毒性もあるのでしょう。

そして動画により「威力」のへることもなく、むしろ刺激は強まるのです。
もはや言葉や理屈でなく、民族音楽のような身体感覚です。

リズムをきいたあと、体のなかに、ふしぎなテンポがのこって。
つい、電車にのってるときも、スパイダーフラッシュローリングサンダーしてしまうわけです。

 

④ラッスンゴレライは「匿名性」である

 

彼らの衣装にも、注目です。
赤服に……サングラス、これだけです。

よく考えると、これはすごいことです。
あれだけ露出しているのに、彼らをあらわす「記号」は、それだけなのですから。

偶然でしょうが、サングラスは「匿名性のためのツール」です。
顔をかくして、目もみえない。

あまり「ひとりの人間がいる!」という、感じがしなくなります。
むしろ「サングラスかけたら、だれでもいいやん」というふうな。

簡単に、彼らのまねをできる気がしませんか?
赤い服をきて、サングラスをかければ、だれでも「8.6秒バズーカー」になれるような……。

どういうことか、言葉をかえてみます。

彼らは「個人っぽくなる」ものを「サングラス」でかくしました。
それにより、だれもが「サングラスをかければ彼らになれる」ような気がするのです。

「8.6秒バズーカー」は、個人としての存在でなく、
「赤服にサングラス」という、キャラクターであるともいえます。

演目も、マイケルジャクソンのステップのように、超絶技というのではありません。
むしろ、だれもができる、音楽あそびのようなものです。

だれもが「彼らになれる」気がするのです。
ひとは、他人にはなれませんが、キャラをかぶることならできるからです。

堺雅人にはなれませんが、半沢直樹のまねはできます。
カンニング竹山にはなれませんが、切れ芸はできます。

たくさんの視聴者や芸人が、彼らのまねをしました。
それにより、ブームが加速したとは、そういうことでしょう。

「ラッスンゴレライ」は「まねしやすいし、まねしたくなる」のです。

彼らは「人間性を、サングラスでかくしたキャラクター」です。
そこには、だれもが簡単に「いれかわれる」ような、匿名性がひそんでいます。

芸能界で、サングラスをかけるひとは、あまりいません。
彼らは「人間性」を売りにしているからです。

「ラッスンゴレライ」は、ちょうど逆になります。
「ちがう人間だし、あんなふうになれないな」でなく「なんか自分も、やってできそう」です。

だれもが、彼らになれる、だれもが、まねできる。
そんな匿名性による、南国リゾートのような、手がるさが、要因のひとつなのだとおもいます。

 

⑤ラッスンゴレライは「被害者」である

 

これで最後です。
もうすこし、おおきな視点で考えてみます。

いまや毎日のように「ラッスンゴレライ」は、テレビにでます。
ブームにのり、視聴者にも「ウケている」わけです。

けれど同時にみえるのが「彼らは生きのこることができるか?」という目線のおおさです。
そういう番組もありますし、本人も、まわりも、露骨にそんなコメントをしています。

「たのしむ」だけでなく、ちょっと心配になってしまう。
芸能界、視聴者全体で「あの若者をみまもる空気」を感じます。

一発屋は、毎年のように顔をだします。
それが「今年だけか」「来年ものこるか」なんて、ひやかされだしたのは最近です。

もとめられ、顔をだして、とまらなくて……あきられて、すてられる。
そろそろ、それが「オカシイ」と、だれもがうすうす感じているんじゃないでしょうか。

けれど、そのとめかたもわからない。
みんな「視聴者の加速するニーズが……」なんていいつつ、どうもできないのです。

ただ、ひっぱりまわされる「ラッスンゴレライ」を、テレビでみるだけです。
ふたりの若者が、社会全体に、消耗させられるのをみるだけです。

もちろんチャンスでもあるでしょう、「8.6秒バズーカー」は困難をけちらすかもしれません。
けれど、どう考えても、その前に、彼らは、時代の犠牲者、被害者であります。

もとめる側が、強くなりすぎた。
提供する側が、あらゆるものを切り売りするようになった……身をほろぼしてさえも。

そして問題は、われわれひとりひとりが、その加害者である、ということです。
われわれの、受け身な欲求が、たばになり、おおきな砲弾になったのです。

親身に「心配してあげる」のもいいでしょう。
けれどそもそも、彼らを「そういう状況」においこんだのは、われわれではないでしょうか。

それすらわすれて「みまもってあげる」とは、なかなかラッスンゴレライな話だとおもうのです。
「視聴者」とは、どこかのだれかでなく、僕とあなたなのですから……いかがでしょう?

 

あきたからもうまとめ

 

ある意味、彼らは「現代の若者の代表」です。
テレビ画面をみながら、同世代として、ひとごとでない気がしてしまいます。

僕らの時代は、やっぱり「負けっぱなし」なのか。
それとも、彼らは、なにか勝ちとってくれるのか……つい、そんな目でみてしまう。

その結末はわかりません。

けれど「時代に挑戦する若者」の、真摯な姿がそこにあります。
その事実だけは、だれにも、ひやかせないんじゃないでしょうか。

社会に「若者のあがき」は、どれだけ成功するのか。
むしょうに、そういうドラマを感じるのです。

ふと、考えたことは以上でした。
お茶の間にて「あきたからもうおわり」にされないことを祈るばかりであります。