パフォーマンスをつくるとは、観客の目線を考えるということです。
マジックでは、表と裏の作業がはげしくことなりますから。
余計にそうする必要があります。
しかしそれがむずかしい。
我々は、自分のみかたで、ものごとをとらえてしまいがちだからです。
どれだけ気をつけても、マジシャンなりの〝ステレオタイプ〟は、顔をだします。
観客のためにならない、演者の固定観念。
そんなものは、いちはやくダストシュートにダンクシュートすべきです。
そのためには演目——トリック——の本質をみきわめなばなりません。
たとえばメンタルマジックの手順をつくるとして。
ブックテスト、センターテア、ブーンライター、タイムマシン……等々、おもいつくでしょう。
これらをくみあわせれば、豪華なメンタル・ルーティンができあがるのでしょうか?
おおきなまちがいです。
これらは——演出にもよりますが——おなじマジックだからです。
観客からすれば〝心をよまれた!〟でしかありません。
盛りつけはちがえど、おなじ味の料理なのです。
素材に目うつりする、ある種の、おもしろさはうまれるでしょう。
けれど、それ以上にはなりません。
現象で魅了してこそマジック、という意味では失敗なのです。
マジシャンからみれば、まるでちがうものなのに。
観客からみれば、道具こそちがえど、みなおなじ現象になる。
この認識の差が〝あやうい〟というわけです。
もうすこしほりさげましょう。
たとえばブックテストとは——どんなマジックでしょうか?
この演目の、本質について考えてみます。
「本をつかってあいての心をよむマジック」でしょうか。
「本をつかった読心術」でしょうか。
ちがいます。
本なんかどうでもいいのです。
ブックテストの本質は「心をよむマジック」に、ほかなりません。
言葉あそびのようですが——独善的主張になるのを気にしつつ——そういうことです。
本は、心をよむために、たまたま使用した道具にすぎないのです。
単語をひろったあとは、わすれられてもいいくらいです。
重要視すべきでありません。
よほどの理由づけがなければ、さも重要なツールのように、
おごそかに本をとりだして、ブックテストをはじめてはいけないのです。
それでは、逆説的に「本をつかわないと心をよめない」と自白することになります。
我々はしかけにたよった、超能力者のふりするだけの凡人なのだと。
ひいてはメンタルマジック——超常的なものの予感——そのものの否定になります。
そんなこと気にせずとも、観客は拍手をくれるかもしれません。
けれど、論理的にはそうじゃありませんか。
ブックテストにおいて、本は「なくてもいい存在」なのです。
あくまで「心をよむのにランダムな単語をきめなくては……ああ、この本がちょうどいいや」
くらいのものです。
いいかたをかえると、ブックテストの本質は「単語をセレクトしてから」になります。
そこから「心のなかの単語をよみとる」ところが、メインディッシュなのです。
その部分こそ、時間と精力をかけて演じるべきなのです。
あえて断言すると、本をぱらぱらしてる瞬間など、どうでもいい。
観客からみたマジックのはじまりは、それ以後であります。
本をおいてからが〝ブックテスト〟です。
これは、おおくのメンタルマジックにいえることです。
種を発動させた瞬間より、それ以降のほうが重要なことがおおい。
ある意味では、演出が九割です。
コインやカードよりも、さらにウエイトはヘビーです。
演出に真の説得力があるか——それがメンタルマジックのむずかしさなのでしょう。
考えるだけで、何歳も老けこんだ気分になります。
もちろん、あらゆるマジックについてもいえます。
たとえば、コインズアクロスとホーミングカードだって、ある意味ではおなじです。
トライアンフの本質は〝そろうこと〟でなく〝あてること〟かもしれません。
暴論ですが、そんなことを考えるのもむだではありません。
ポイントをみきわめることで、演技はよりひきしまるはずなのです。
なにが、どこが、どんなふうに〝真に必要なのか〟問うてみる。
トリックの本質を考えるとは——トリックに忠実であるとは——そういうことだとおもうのです。