マジックを愛してもマジックは愛してくれないかもしれないことについて 。

僕はかれこれ十年以上もマジシャンをしている。

つまり、十年以上も、マジックというものに人生の若く貴重なエネルギーをぶちこんできたわけだ。別に、それ自体後悔があるわけではない。わりと、この人生は気に入っているから。ちなみに来世は鴨になって、鴨川で、すいすいふらふらする予定だ。

そこで実に多くのものをみてきた。

もちろん誰だって、生きる上で、多くのものを目にするだろう。道頓堀を歩けばグリコの看板を目にするみたいに。僕の場合、多くのマジックに魅入られた人間をみてきた、というわけだ。

少年のころから、多くのマジシャンの人生を目にできたことは貴重な経験だったと思う。精神的金塊。マジックそのものとは関係なしに。なにか一つの世界に浸かっていなければ、なかなかそうもいかない。

そこで目にしてきたもの──感じてきたことは、実に、僕の人格形成にとけこんでいる。

一つはマジックに対する、ある種の不信感かもしれない。

もちろん嬉しいことばかりではなかった。むしろ、そうではないことの方が多い。いくつでもゴディバのアソートパックみたいに見繕って──ビターもスイートも──語ることはできるけれど、いちばん心のなかにあるのは「マジックを愛したからといって、マジックが愛してくれるわけではない」という想いだった。

僕は、多くの人がマジシャンをやめるのをみてきた。

僕なんかより圧倒的に才能にあふれた人もいた。上手い人もいた。カッコいい人もいた。面白い人もいた。頭のいい人もいた。でも、彼らは、いつしかマジシャンでなくなった。糸が切れた凧のようにどこかにいった──というのは嘘で、彼らがマジシャンをやめるときの表情はいまでも心にのこっている。

残された僕はなんなんだろうな──と思うときがある。ビールを飲んで夜道を歩いているときなんかに。

なぜなんだろう、と、少年の僕は思った。問うた。彼らは、みな、マジックを愛していたのに。おそらくは僕以上に。

そして若造ながら、そうした先達をみて「ああ、この道はたぶんまともにやっちゃダメなんだろうな」と感じもした。彼らが、どれだけマジックに心や人生や若さを捧げていたかをみてきたわけだから。そう考えざるをえなかった。

だから僕のマジシャンとしてのスタンスは「さらさらまともにやるつもりはねえ」である。今も昔も。あるいは、いつのころからか。

マジックを愛してもマジックは愛してくれないかもしれないらしいぞ。

さて、幼いながらにそう感じたわけだ。むなしいことに。そもそも愛したぶんだけ報われるわけではない、というのは、37497通りある愛の定義のうち、14番目に正しい定義でもある。

「マジックをどれだけ愛しているか?」と「マジシャンで生きていけるか?」は関係がない。

わお。

わざわざ言葉にする必要はないのかもしれない。

けれど、最近、目を輝かせてマジシャンをめざしている後輩もいるので、言葉にすることも大事かなと思った。人生のほとんどを捧げたものに報われない悲しみに対しては、やっぱり、なんらかの対策をしてほしいから。さけられるにこしたことはない。あらかじめ知れば用心もできる。

君が愛しているものは、いつか君を破滅に追いこむかも知れない。

そういうものだ。君が目にしている輝きの百倍くらいは、目にできなかった悲しみがうずまいていたはずだからね。それでも愛したものと生きていきたければ、対策をすることだ。対策だ。いまが春だからといって冬の用心をしなくていいわけじゃないんだ。いいね?

そういえば「ほどほどに愛しなさい。長続きする恋はそういうものだよ」とシェイクスピアがいってたな。

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