「万物は無に体するぞ兵法も 無刀の心奥義なりけり」
柳生宗厳
マジシャンには、テーブルホップとよばれる仕事があります。
レストランやホテルにて、それぞれのテーブルで演技をしてまわるというものです。
およそ一箇所につき、五分前後。
これがなかなか重労働です。
個人的には、もうひとつのショウ形式より汗をかきます。
おそらく「はじめましてからさようなら」を、数分きざみで、何度もくりかえすことになるからでしょう。
まあ、そんな愚痴はいいとして。
ちょいと最近、この形式についておもうところがあります。
実はここのところ、自分のテーブルホップにおいて、ある変化が生じているのです。
それは「あまりマジックをしなくなった」というものです。
しかし演技時間はかわりません。
くわしく説明します。
いわば、以前の演技は「オープニングにはこんなふうに登場してカードをとりだしてこのマジックをしてそれからこのマジックをしてからこのマジックをして最後にこんなマジックをしよう」というガチガチに手順をかためる感じであり、それをこなす作業でした。
しかし現在では、観客の食事するテーブルにちゃっちゃと近より「すいません、なに食べてはるんですか」とか「こんばんわどうも」なんて声をかけて、なんやかんや自己紹介なり雑談なりして「ああ、せっかくですから」と、トランプをとりだして、ひとつふたつトリックをみせるくらい、だったりします。
ふたつの差は歴然です。
しかしまあ、いつのまにか、こんなふうになっていました。
そしておどろくべきことに——それが本文の主旨なのですが——それで成立しているのです。
むしろ、観客の反応もよく、店側や依頼主からおほめをいただいたりもします。
マジシャンとして仕事が成立している——だれも困っていないのです。
よくわからん状況です。
以前「単純な美/複雑な美」を合成する?でも考えました。
そもそも僕はどちらかというとミニマリスト(この言葉は好きでありませんが)です。
手技と語りでなんとかしたい、道具や準備など、なければないほうがいい主義者です。
このタイプは無駄をはぶいて、スキルの内在化をはかる傾向があるようにおもいます。
つまり、道具をつかってできることを、この身ひとつでやりたがるわけです。
そもそも技術の習得を嫌って、道具はつくられるはずなのに、その逆をいくと。
ハサミを持つことを嫌って、手で紙をきるのを練習するようなものです。
そしてマジックも、いわば観客をひきつけるための〝道具〟です。
ならばいずれは、道具をとりさりマジックなしに観客をひきつけることをめざす、との発想もあるはずです。
おもえば、僕はいつのころから、
「マジシャンの目的は観客を魅了することであり、マジックはその手段である」
などと考えたりしていました。
これは言葉遊びのようですが、
「マジシャンでいるのに、かならずしもマジックは必要でない」
と換言できるかもしれません。
あるいは、
「マジックをしないことこそ、最もマジックをすることである」
なんてうそぶくこともできるでしょうか。
ひじょーに、だれかに怒られそうですが。
これも、そうした精神のあらわれなんだろうとおもいます。
あくまでテーブルホップ限定ですけれど。
みんな笑顔ならいいじゃないと、そんな感じになっている昨今です。
しかしまあ、自分のスタイル・傾向をメインストリームだとはおもっていないので。
あくまで冗談半分におうけとりくださいませ。
マジシャンは「魔法使いを演じる役者」であります。
それを信じこませるために「みせかけの魔法」を演じるわけです。
だとするなら、なにも演じずとも、舞台で魔法使いだとおもわれたのなら。
もうなにも演じる必要はありません。
これぞ、マジシャンのひとつの境地なのかもしれません。
そんなことをふとおもいました。
つまり、マジシャンの理想のひとつは、
マジックを内在化させて「なにもせずとも魔法使いにみえる」であるのだと。
非常に考えるのは困難でありますけれど。
もしや、マジックを極めたマジシャンは、マジックをしないんじゃないでしょうか。